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のどに魚の骨が・・・その時おばあちゃんは。

牛肉、豚肉、鶏肉、もちろん鹿も鴨も、とにかく”肉”が、生まれた時から苦手な私の大切なタンパク源は魚である。特に大好きということはないが、魚介類は普通に食べることができた。
しかし、小さな子どもにとって、魚の骨は大敵だ。おばあちゃんは、いつも骨抜きを使って抜いてくれていた。それでも100%骨を除くことはできない。のどに骨が引っかかり(刺さっているのだろうか・・・)、唾を飲み込むたびに「痛っ」と感じるのは、幼かった私にとって、とても我慢できないことだった。おそらく、おとなになった今も、まあまあ嫌なものだろう。

先日、釣りが趣味の友人の弟さんにいただいたアジの開きを母と一緒に食べながら、自然と「のどの骨取り」の話になった。
少し小ぶりのアジには小骨が多く、最近は食べることに弱気になっていた母にとっては、久しぶりの小骨との格闘となった。だが、先に「かあぁぁーーー」と声ともつかない音を発したのは、私の方だった。小骨をよけるのが面倒になり、パリパリに焼けた皮ごところっと外れた美味しそうな身を口に入れて、何度か咀嚼した時だった。そのままのどに骨が定着しそうな恐怖を感じた。急いで、お行儀悪く口の中のものをはき出した。家で母と二人きりで良かった。

「おばあちゃん、私がのどに骨がささったら、仏さんの花瓶の水飲ませたん、知ってる?」母に尋ねた。
「そら、知ってるよ」
「いややったわ。あんなん、大丈夫やったんかなあ。(いろいろな菌とか発生してそうで)なんで止めてくれへんかったん?」
「そんなんできるはずないやん!お姑さんに逆らうなんて」
ちょっと意外だった。母は2歳下の弟を産んでからまもなく勤めに出るようになり、昼間家に居ることはなかったので、母とおばあちゃんのやりとりは覚えていないが、もっと抵抗していたのだと思っていた。

「それに、肩を切って血を出しててんで」
「!!!」
続いて出た母の言葉に驚いた。なんでも、おとなが肩こりと感じるような場所を刃物でちょっと傷つけて血を出していたそうだ。もともと泣いてばかりで周りを手こずらせていたようで、そんな癇が強い(かんがつよい)子どもへの対処法だったらしく、近所の専門の施術者のところへ通っていたようだ。幼児の肩を切るなんて、考えただけでも恐ろしい。
「なんで止めてくれへんかったん?」
「そんなんできるはずないやん!」

うちのおばあちゃんだけが、ということではないと思う。今のように医療のシステムが整い(コロナ禍でそうでもないことが露見してきたが)、さまざまな治療法や薬が施されるような豊かな環境ではなかったこの時代の人たちは、多かれ少なかれこのような方法で子どもを守ってきたのだろう。

「熱は、からだが悪いものと戦っているのだから、あまり無理に下げない方がいい」「下痢で悪い菌が出ようとしているから、下痢止めは多用してはいけない」など、私の世代でもそう話すお医者さんに出会ったことがある。
上手い説明ではないが、人間も自然界の一つと考えるならば、自然界とからだの関係において、ねじ伏せるように、または関係を遮断するような方法で、その時の苦痛を除こうとすることが、果たして本当にからだや心のためになっているのか。発展に尽くした先人たちの努力を非難するつもりはないが、過剰にも感じる現代の医学や科学の恩恵を、最近、特にコロナ禍という状況だからか、ふと振り返ったり、立ち止まったりしたくなる。

高齢となった母のもとへ頻繁に通うようになり、おばあちゃんの話をする機会も増えた。私の知らない昔話にまた驚きたい。

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