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おばあちゃんといっしょ。 はじめに

両親が共働きだったことから、私は完璧な”おばあちゃん子”だった。

3世代同居があたりまえだった昭和40年代に、母が正社員で子供服(のちに婦人服)販売員としてバリバリ働く家庭はあまりなかったように思う。大きくなってから、弟を出産後まもなく働きに出た理由を「このままでは、孫を溺愛する姑ともめるだけだと思ったから」と話していた。つまりは、いい距離を取るためだったようだ。当時はおそらく、母が働かなければならない経済的事情はなかったと思われるので、保守的な父がよく許したものだとも思った。ただ、周りから見れば、天職に就いているような母の働きぶりを見て、いいわけのようにも思えた。ちなみに、別居という選択は、当時の世情や我が家のさまざまな事情から、考えられなかった、と思う。

2歳下の弟と比べ、体の弱っかた私は、特におばあちゃんの愛情を注がれることになる。

母が働きに出た理由のきっかけになった出来事がある。ある日の夜中、相変わらず熱を出し、なかなか寝付かず泣きじゃくる私を、おばあちゃんは2階の父母の寝室から引きとって、1階の自分の寝床に連れていってしまった。そこで母の気持ちは固まったそうだ。「この子のことは諦めよう」と。いやいや、そんな簡単に諦めんといてよと、娘としては思うのだが。母が働きに出ると告げた時も、おばあちゃんはあっさり認めたそうだ。「これで私が孫の世話を全て見るとことができる」と思ったのかもしれない。いや、そんなイジワルな気持ちではなく、「頑張ろうとしている嫁に代わって、私が頑張って孫の面倒をみなきゃ!」だったのかもしれない。

というのも、おばあちゃんも体は丈夫ではなかった。片目は白濁して失明。家事を普通にこなしていたので想像がつかなかったが、残る片目も長年白内障やら他の疾病を患い、本人は「あまり見えない状態」だと言っていた。今なら日帰り手術で完治する白内障。私が覚えている範囲でも、目の手術で何度か長期入院したことがあるが、亡くなるまで完治にはいたっていない。心臓も悪かった。具体的な病名は知らないが、常に病院に通って薬をもらっていた。高血圧でもあったようだ。

背中は丸く、小さな小さなおばあちゃんだった。冬は着物の上に、夏も服の上に割烹着をいつも着ていた。一日中、はずすことはなかったように思う。ひと昔前の、典型的なおばあちゃんのイメージそのものだ。だが、おばあちゃんが亡くなったのは68歳。私が覚えているおばあちゃんは、50代後半からということだから、今の私と同じくらいだ。ああ、なんということだ。おばあちゃんは、こんなに若かったのだ。

これから、日々思い出すおばあちゃんとのことを少しずつ記していきたいと思う。



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