見出し画像

日暮里コンコースのパン屋でクイニーアマンを見て思わず涙腺が緩んだお話。

パンを食べられるようになった。

一般的に、「パン」を食べられるように「なる」なんて表現はあまり聞かないのも重々承知しているので、「はあ、、?」という胸の内が勝手に聞こえてきたりする。

だけど私にとって、ここ日本においてこの割と当たり前に普及している食べ物を口にすることが、この十数年はほぼなかったのである。

そして私にとって特に大きいのは、「食べる」ではなくて、「食べられる」ということ。この2~3年の間に、「食べる」ことならどのジャンルにおいてもできるようになった。

勝手な言葉の定義だけど、「食べる」には味見することも含めて軽いニュアンスで使い(食べてみる、的な)、「食べられる」というのは一歩先にある、カロリー摂取の恐れとか苦手意識をも越えて「味わう」ことができるという、持続可能であり心も喜んでいる意味を含んでいるような気でいる。

単に味見することはできる。だけど、ひとつのパンを食べきったり、複数のパンを食べ比べ、心ゆくまで「味わう」というのはなかなかにハードルの高いことだった。動機がない限りはそんな苦行的なイベントへ対峙はしたくないので、試したことはない。試すことができなかった。だから、ハードルの高いことだったろう、が正しい表現である。

知人の手作りパン会へお呼ばれし、ちょっと敷居が高いけれど(そこまでパンを食べたいという動機がなかった)、最近お付き合いのある方が開催する会ということに興味があった。最悪パンは味見程度になってしまっても、その環境へ浸り、空気を吸うことができればいいかなくらいの気持ちだった。

なのに。美味しかった。パンが。味見だけでなく、味わうことに夢中だった。あの小麦粉だらけで恐ろしい食べ物だったはずなのに。
とても美味しかったのだ。そして、とても輝いていた。パンも、それを大切に、愛おしげに作る女性も。


ふいに、つい最近、最寄りの日暮里駅でクイニーアマンを見て涙腺が緩んだ瞬間が頭をよぎる。

時は10数年前に遡る。

母はパン屋「アンデルセン」が好きだった。広島出身だから思い入れがあるそうで(アンデルセンは広島発)、あまり一緒に乗る機会もない電車の旅で見かけると、「何か買おうや~」と毎度入っていく姿が印象にある。

高校生から20代半ばの私は、パンなんて怖くて嫌で食べられない日々だったから、母が好きだと言って買ったクイニーアマンを「お腹すいてない。食べたくないから。」と頑なに断っていた。

とはいえ母と一緒に食べれられなかったことが心に残っているから、後日私は駅のコンビニでクイニーアマンが売り出されているのを見つけると、思わず買っては、誰にも気づかれないように一人で食べていた。甘くて怖いクイニーアマンを。本当はお母さんと一緒に、アンデルセンのそれを食べたかったのに。

私たち障害者は、食べるところを見られるのが苦手だ。

偏食だから、「何を」食べるか見られる(=監視されてる気になる)ことが怖いというのはもちろん前提にあるけれど。

野菜だけ食べるからとか、そういった理由だけではなく、パンを食べたり、コメを食べたり、肉を食べたり。そういうとても稀にクリアできる瞬間を見られることも同時に怖い。今日だけは、この時だけは、一緒にいる人と同じものを食べて過ごしたいから口にする「今」しかできない場面を見られ、これが「常」だと思われることを、かなり恐れている。ずっとは食べられもしないのに、期待され、それに応えられないことを恐れていた。

だから、クイニーアマンを食べるのは、誰の目も気にしないで済むコンビニのそれを買って、ひとり、こっそり物陰に隠れたときだけ。病的に、美味しいと思った感覚を今も覚えている。

10数年経ったいま、彼女はもう60半ば。クイニーアマンを食べたいとは思わない年頃になったそうだ。

半面わたしは、日暮里駅のパン屋でそれを見かけると、つい、彼女と一緒に食べたい気持ちになる。

今ならきっと私は、美味しいねって言いながら一緒に食べられるのだけど。

そんな思考と感情が心を転々とし、視界を霞ませながら日暮里駅を後にした。

今日私がパンを食べ「られる」ようになったこと、心から望んで噛みしめ「味わう」ことができたこと。それが大きく感動的なイベントであり、やるせない感情を喚起する出来事でもある。

時間は限られている。クイニーアマンはもうどうなるかわからないけど、違う何かで、違う何かを、私は大切な人たちと美味しいねって交わせる時間をつくれたら、きっと幸せ。

だから、パンを食べられることができた今日、この瞬間を与えてくれた方々には感謝しかない。

限られた時間を、謳歌しよう。



******************
ここからは2020年12月のとある後日談。

これからの生き方を大きく変える決断をし、親とのわだかまりを考えると居てもたってもいられなくなり、母へ記事を送った。

今、お母さんはボッーとした頭で読ませてもらいました。

全ての(真意)を読みとることは出来ませんが😢が、心地よい言葉の響き🍃を感じて目頭が熱くなりました。

この数十年真剣に向き合っているつもりで、実は理解してあげられない自分の歯痒さ、辛さも重なって、もっと本気で向き合いたいと思いましたよ。
クイニーアマンも是非一緒に食べたいなぁ…どんな味わいになるだろう、どんな味でも幸せだろうなー。
パン作りも楽しそうね💪
うちでも一緒に作ろうよ。
もともとオーブンを購入する予定だから、丁度良い👍

お母さん今新しいことにチャレンジしたい気持ち満々なの‼️

コロナで世間がざわつく日々だけど、今動かないと後悔するから。週末会いに行き長年の掛け違いを少し、ほどくことができた気がする。

全部に理解したのではないけれど少なくとも、あなたが独りよがりで人生を歩んでいるのでは無い事が分かりました。

安定した道を選ぼうとしない事に、不安ばかり抱いていては先へ進めないのだなと思います。

怯まず、緩まず、丁寧に生きてください。

ずっと欲しかった言葉。

私が自尊心を取り戻すまで、もう少し。もう少しだけ、待っててほしいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?