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人との希望は人で回復する

昨日、希望学の話から共有する人がいたらそれがどこかで希望になるんじゃないかというようなお話をnoteで書いたのですが

“これが少し明るい希望のような話題に見えるのもそうなんじゃないかなと思ったのです。 要は一人でそれを見ているわけではなくて見たことを共有して、それを話す人がいるそういうことってそれこそ小さなキボウのかけらになるんじゃないかなって。”

私がそう思ったきっかけのお話を。


鬱々した思いがあった先日

先日、実家の父の手術の話があってそれの付き添いをしていた中で、自分のど黒い感情が湧き出てきてしまっていました。

noteをずっと読んでいただいている方は時折出てくるので毒親なことは気がついていると思うのですが、まあいい感じに毒・・。
そんな父親の心臓の手術のために(昔から親が体調崩したりすると家の中で対応するのは基本私なのですが)仕事を開けて病院に行っている私。
なんだろう・・という気持ちが沸き起こる。

でも、そもそも、それは自分で決めたことではあるわけです。

それは


私の娘と両親は私の気持ちで関係性を変えてしまっても私はそれについて娘が納得できるように説明できないと思うこと。

未来の私が後悔しないようにしようということ。


この2点から自分で親の手術など必要な部分では関わるそう決めてはきたのだけれど「なんだって死ね死ねと幼い頃私に言い続けた人の手術を私が付き添っているんだろう・・」と思ったんですね。
どす黒い、もう(父は)散々生きているしなあ・・みたいなものも・・
そんな自分も少し嫌で、もうぐるぐる。


今までは一人で処理してきたのですが、久しぶりの親問題で、親も年取って状況も色々変わってきていて、これはどう処理しようかなあと思っていたんですね。

で、悩んで、最近入ったコルクラボのブログに試しに書かせてもらったんですね。どろっとした感情のお話をしたんですよ。

こわごわ
これでひかれないかなとかだいぶドキドキしながら。



そしたらみんな優しい・・TT



最近入ったばかりなのに寄り添ってくれるコメントがいっぱいあって。
その時はただありがたいと思っただけだったのですが、時間が経って落ち着いてきた時に一周回って

今は幸せだからいいか、そのくらい

と思えたんですね。

それで思ったこと。

人との関わりでのすり減らされた希望というのは人との関わりでまた取り戻しやすい

ということでした。



人との希望の消費は人で回復する


人と触れ合うことが嫌になること、私も当然あります。
小説もそういった男性が主人公になっています。
人に対して
ふとした瞬間、諦めてしまう。

もういっか。

みたいな。そんな瞬間ってありませんか?

そういう時私は庭いじりをしていたりして、どちらかというと人というより自然と触れ合って復活していくのですが、でも今回の件で思ったのは人とのそういう、諦めとかは実は人と触れ合うので一番回復したりするのだなあと思ったのです。


これらから昨日言った今回のようなコロナ禍という社会が与える影響が大きい中で、しかも人との触れ合いが希薄になっている時代で、でもやっぱり

人との触れ合いが希望になる

希望までいかなくてもキボウのかけらにはなる。

そう思ったのです。それはリアルでなくても。
私のnoteも何かそういうきっかけができたらなと思っています。


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そんなキボウのカケラを主人公に託した小説

普通の会社員の主人公が、ビジネスでインドに滞在し犬を拾ったことをきっかけに、インドの日常に横たわる人々の深層意識やカスタムに触れていくお話。
NewsPicksでも紹介されました。

なんと、るろうに剣心の大友監督と、ドラゴン桜の編集などもされている佐渡島さんからも書評をいただきました。

よかったら是非読んで見てください。


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