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誰にだって自分がわからなくなるときはある。

初めての記事に何を書いたらいいんだろう、と考えたのだけど、私がどんな人間で何をしようとしているのかを書いたら1人くらい、いや、10人くらいは興味を持ってくれるんじゃないかと思うので、最初は私が考えていることを書くことにした。

そもそもなんでnoteを始めようと思ったか、というと、出版社の編集さんにオススメされたからなのだけれど(自分は何が発信するのにいいのか、とか、世の中の流行りに疎いので、プロからのアドバイスはとてもありがたい)オススメされてもやりたくないものには手を出さないから、「これは面白そう!やりたい!」と思えたってのが一番の理由。

普段はツイッターでボソボソつぶやいていることが多い。でも、ツイッターだと140文字っていう制限があるから、考えていること全部を書くのは無理がある。140文字だからかけること、ってものもちろんあるけど。


さて本題。

私は、トランスジェンダーである。生まれた時の性別は女性。今も戸籍上女性。だけど、自分を女性として認識したことがない。子どもの頃、女性化していく自分の身体が嫌いで、居心地が悪くて仕方なかった。着ぐるみを着ているような感覚、といえばなんとなくわかるだろうか。

思春期くらいまでは、「男」になること、「男」として扱われることにものすごいこだわっていた。だけどカミングアウトはできない。だって、そんな人いないから。だからせいぜい「ボーイッシュな女の子」として見られる程度だった。それでも、女の子扱いされないだけで随分楽ではあったが、結局は女の子であるってことを、ことあるごとに思い知って、絶望感を抱いていた。だから、言葉遣いや仕草を乱暴にしたり、髪の毛を短く切ってスポーツに打ち込んで、体を鍛えて、「男らしく」見せることに必死だった。

(男らしい、のイメージが悪かったな、と今振り返ると思うけど、あの頃は乱暴で、粗野で、攻撃的で、肉体的に強いことが男らしいだと思っていたから仕方ないのだ)


でも最近はそうでもない。それはおそらく、自分が自分であることに劣等感を抱かなくなったからだと思う。

今の私には「男」か「女」かという分類以上に、「自分」が「自分」であることの方が大事だ。自分に嘘をついていないだろうか。自分の目指している一番居心地のいい、一番好きだと思える自分でいるだろうか。そこが最も大事だ。だから、正直「男でも女でもどっちでもいい」に近い。とはいえ、女性扱いされることにはまだ若干抵抗がある。どっち扱いもして欲しくない、ってのが一番しっくりくるかもしれない。


こう思えるようになったのは実は最近で、2018まで私は自分がトランスジェンダーであることを隠して生きてきた。つまり「自分が自分であること」を、自分が一番否定している状態だったわけだ。

人って、自分を否定している状態には耐えられないので、他のもので埋めるようになる。多くの場合、それは自分以外も否定する、ということになる。

なぜなら、自分らしく自分を生きている人が羨ましいのだ。常識に合わせて、周りの目を気にして生きていない人を見ると、そわそわする。だから、なんとかしてそれをやめさせようとする。そうすることで、自分は間違っていない、っていう安心感(仮)が手に入る。あくまでも(仮)だけどね。


道の上を並んで歩かなきゃいけないのに、道から外れて道端に咲いているタンポポを見に行っている人を見ると「あ!いけないんだよ!ちゃんと列に並びなよ!」って言いたくなる。渋滞している道を避けて脇道に入ろうとする人を見ると「その先に何があるかわらかないんだから!危ないからこっち!」って言いたくなる。歩き疲れて座り込んで休んでいる人を見ると「何一人だけ休んでるの?置いていかれるよ!立って歩きなさい!」って無理やり立たせて歩かせたくなる。本当は自分も立ち止まって見たい景色があったり、行ってみたい路地裏があったりするのに「それはだめ!」って自分で否定しているから、そんなことはできないのだ。

やりたいならやればいいのに、自分も。でもそれはできない。怖いから。でも、怖いと思っていることにも蓋をする。そして「違う!間違っているのは自分らしく生きているあっちの方だ!」って思い込む。それをしているうちに、それが本当のことだ、って思い込むようになる。(みんなと同じなら安心だよ。人と違うと、否定されるよ。周りの期待通りに生きるのが正解だよ)って自分で勝手に決めるのだ。昔の私がまさにそれ。振り返ると、実に不自由で、不安だった。自分で自分を否定しながら生きるのは苦しいのだ。よかった、あそこから脱出できて。


ただ、私の周りには、まだ道から外れることが怖くて仕方ない人がたくさんいる。特に職業柄、10代の子どもたちと関わることも多いのだけれど、すでに「道から外れたら死ぬ」と思っている子もたくさんいる。(死なないよ?道から外れた先には、違う道が待っているんだよ?)ってことを教えてくれる大人が、近くにいないと子どもたちは大変なのだ。

幸い、不安と不自由を乗り越えた私は今、とても自由で穏やかなので、もしかしたらここに至るまでの経験から気づいたことが、誰かの役にたつかもしれない。それを書いていくのにnoteってうってつけだな、と思うので、ぼちぼち書いていこう、と思う。気に入ったらフォローしてください。









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