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第24話:バレンタインデーというブラックデー

明日はホワイトデーということで、バレンタインデーのお返しをせねばならない。チョコやクッキーをもらえるのはそれなりに嬉しいが、ちょっと気の利いたものを返そうとすると、毎年、これが1万円ほどの出費になり、小遣いの少なさに喘ぐ僕にとってはブラックデーでしかない。

最近は聞かなくなったが、かつて(随分古いかもしれない)、小中学校ではバレンタインデー登校拒否というものがあるということが話題になったりした。何でもチョコレートが貰えそうにない男の子が、学校を休んでしまうらしい。
くだらないと言えばくだらないが、他の男の子が貰っているのに自分だけが貰えない辛さは、何だか分かるような気もする。気にしなければ何のことはないのだが、そう思える人とそうできない人がいるものだ。
おまけにそこにいじめの問題が顔をのぞかせるというから始末が悪い。チョコレートを貰えない上に友達から何だかんだと言われては、学校に行きたくないと思ってしまうのも無理からぬことなのかもしれない。
どうせ商業主義の作られた「行事」でしかない。バレンタインデーなどなければいいのに、困った昨今の風潮である。

面白いのは、こんなバレンタインデーなどというささいな事をきっかけとして、いじめられる対象がスッと変化し、それまでいじめに荷担していた子が何故かいじめられ始めるなどということがあるらしい。
そんな場合に、今までいじめられていた子が、その子をいじめていた連中と一緒になってその新しい対象をいじめ始めることもあると言う。

思うに、いじめの心理とはグル保身である。

簡単に言えばグルになることによって自分の身を守る心理であろう。人には誰しも自分の身の安定を望む気持ちがある。その安定を得るために自分以外の誰かを見下し、馬鹿にすることが必要になる、というわけである。他人にそれなりのダメージを与え得るというのは、ある意味では気持ちの良いことかもしれない。
しかしそんなことをしたところで自分自身の価値や評価そのものが向上するわけではない。簡単な理屈である。

おまけに日本人特有の長いものには巻かれろ主義が子供の世界にもはびこっていて、「○○ちゃんの機嫌を損ねると今度は自分がいじめられる」という恐怖感も付きまとう。
男ボス、女ボス自身にたいして能がある訳ではないから、必然的に徒党をなすことになり、主義とか考えとか持ち合わせているはずはないから、変わっているからとか気が弱いからとかいう、ただそれだけのことが理由となる。

いじめが理不尽に起こり、グルになって行われることの、それが原因である。

いじめという行動様式を子供達が経験しながら育つことによって、個とか自分とかいうものを大人になる過程の中で見失ってしまうことは怖い。
グルによるいじめの論理は村八分的なものであるから、はみだしを許さない。個人として独特であったり、大勢の中で正義を主張したり、あるいはバカ暗かったり。そうした人それぞれに備わる差異を否定的なものとしてしまう。
そういう環境からは、事なかれ主義の権力に弱い人間しか育って来ないだろう。個性尊重などと言われる現代の、実に憂うべき、それが実情なのである。大人社会の縮図がそこにあると言えるのかもしれない。


バレンタインデーの夜、僕は誇らしげにカミさんにもらったチョコとクッキーを見せたのだが、彼女は「どうせ義理でしょ。脅したの?」とすげなく答えを返した。いじめに耐えるのはなかなかに辛いものだと実感し、ペンを取った次第である。

(土竜のひとりごと:第24話)

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