『羅生門』と「未知」

1年生の現代文の授業は楽しい。少しこちらが説明した後で「これ、どう思う?」と投げかけると、隣近所で話し合いの輪ができワーワーと議論が始まる。

ここ7年間は3年生の担当ばかりで、そうした授業がどうしても減ってしまうので少し寂しいのだが、1年生のころは、極端に言えば「どう?」と3回くらい言えば、50分の授業がそれだけで成立してしまいそうな勢いなのである。ワーワーガヤガヤやっているだけではない。結構意見をぶつけ合い、なかなか味のある発言が飛び出しても来る。

例えば芥川の『羅生門』の授業。

荒廃した京に餓死寸前で放り出された下人が、飢え死にするか?盗人になるか?という選択を迫られながらも決めきれず、とりあえず一夜の宿を得るために羅生門の楼に上がっていく。すると、いくつもの転がる死体の中に老婆が火を灯し、女の死体から髪の毛を抜いているのが目に入る。それを目にした下人は「あらゆる悪に対する反感」にかられて老婆に襲いかかり取り押さえる。しかし、突き付けた刀の先でおびえている老婆を見てその憎悪・反感は消え、「安らかな得意と満足」を覚えた下人は声を和らげて「何をしていたのか」と老婆に問う。すると、老婆は「この髪を抜いてな、かつらにしようと思うたのじゃ」と答えるが、その答えの「平凡さに失望」した下人の心には再び「憎悪」「冷ややかな侮蔑」がよみがえって来る・・。

そんな下人の心理の変化を、「理由があって心理は生まれ、その心理に従って行動が起こされる」という流れで捉えていきながら、「でも、下人はなぜ老婆の言葉に失望したんだろう?老婆が何と答えれば下人は『失望』を感じなかったんだと思う?」と言い、「どう?」と投げかけると、ワーワーが始まる。

「結って縄にして売るとかじゃねえ?」とか、「晩秋で寒いんだから、抜いた髪の毛で編んだ着物を作ろうとしたって言っても、やっぱ平凡か」とか、「実は、死んだ女は老婆の娘で供養しようとしたって、どう?」とか。

いろんな声が聞こえる中で、ある女子生徒が「多分、下人は老婆の返事がどんな答えであっても満足せず失望したんじゃないかと思う。どういう答えかが問題ではなくて、答えが与えられたこと自体が失望の原因なんだと思う」と言う。

こういうのがなかなか鋭い答えだなあと思うのだが、老婆に対する下人の関心は「老婆の得体の知れなさ」「老婆の行為の理由の不分明さ」にあって、このわけの分からない、不可思議でしかない老婆の正体を知りたいという好奇心によって支えられている。

だから、いくら猿のような鴉のような醜い老婆であっても、それが得体のしれない存在である限りにおいて、そこに一種の「神秘性」が担保されていたのである。ところが、老婆の口から答えが与えられたことによって、その好奇心が消え、「神秘性」もが失われてしまう。簡単に言えば、言葉は悪いが、「なんだ、ただの薄汚いババアじゃねえか」という「失望」が生まれたことになる。


考えてみればそういうことはよくあって、例えば、高校でも大学でも職場でも、初めてあった人が何だかよくわからないがゆえに「スゴイ人」に見えたという経験は誰にでもあるのではないかと思う。時が経ってお互いが分かるようになれば「なーんだ」としか思えないのに、「未知」ゆえに、そこに「神秘」が付加されるのである。

これは「恋」においても同じであろう。男が女に、女が男に惹かれるのは、男にとって女が、女にとって男が未知であるからだろう。あるいは人間として互いに未知の魅力の存在を確信するからに違いない。

「君のすべてが知りたい」と恋人たちは馬鹿げた世迷い言を言うかもしれないが、すべてを知ればそこには「失望」しか残らない。それは、お互いの人格の欠損に気付くということでは必ずしもなく、未知への好奇心の引力の熱量自体が「恋」だからであり、すべてを知ればその引力が自然消失するからである。

いつでも魅力的であるためには相手にとって自分が「未知」である必要があり、あるいは結婚が「墓場」にならないためには、「未知」の再発見や、ともに生きていく「未来という未知」を思い描くことが必要になるのだろう。

少しく真面目な話になってしまうが、「未知」は、主体の行為の意識として考えると、「余地」と言い換えられるかもしれない。答えを知るまで下人には老婆が何者かであるかを考える「余地」が残されていたし、恋人たちには、異性というもの、あなたという存在に未知の魅力を期待する「余地」があった。同じように、退屈な国語の授業でも『羅生門』の女子生徒のように自分のヨミによって新たな解釈が生まれる「余地」が必要だということになるだろうか。

すでに「正解」が定まってしまっているものに好奇心は働かない。自分の意志が能動的にそこに反映されるだけの「余地」があることが、「夢」や「希望」を育むことにつながると言ったら大袈裟だろうか。あるいは偶然が受動的にも新たな世界に導いてくれる「余地」があることも、生きる上で「輝き」になってくれるかもしれない。

一見平和で安定していても澱んだ社会の空気、がんじがらめで身動きの取れないシステム、自分が正しいと言える人たちとの付き合い・・それは結構に疲れる。「正解はない」と言ったらそれは不遜なのだろうが、「正解がある」と言い切る人は、むしろ信用できない。

意味もなく再び言い替えを試みると、「余地」は「余白」と表現できるかもしれない。「社会や人生に余白が必要だ」と言えばいい比喩になるだろう。人間も「隙」がある人の方が面白いし、失敗や再出発がいつでも許される社会の方が魅力的だ。

全く意味もないことだが、さらに言い換えを試みると、ひょっとすると、「余白」は「あそび」と言い換えてもおかしくないかもしれない。「遊ぶ」こと、「怠ける」ことが大切である社会がどこかにないだろうか。と、このごろ切実に思う。

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