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助けてと言えない

今の子どもの置かれている現状について認識するヒントになるのではないかと目に留まった二つの命題を拾ってみたいと思います。

ひとつは・・・「守ることで弱くなる」ということ。

これは鷲田清一(『じぶん・この不思議な存在』講談社現代新書)の言葉です。高校の教科書にも採録されている文章で、一度目にしている方も多いかもしれません。現代の異常な清潔シンドロームが、菌感染による免疫システムの退化を招き、かえって免疫不全の状態に陥っていることと関連づけて、自分を守るために自分にとって異質なものを排除することで、自己同一性の免疫力が低下し、かえって自己を衰弱させていると書いています。

もうひとつは・・・「自立とは依存することだ」。

これは安富歩(『生きる技法』青灯社)の言葉。「自立とは他者への依存からの脱却である」という一般論と真っ向から対立しますが、無論、安易な依存は論外として、自分は完璧ではなく誰かに依存しないと生きていけないという自覚は必要であり、困っているときに助けを求めることができないのは未熟さの反映だとしています。

守ることで弱くなる
自立とは依存することだ

この二つの命題はそれぞれがパラドックスになっています。言葉遊びのようになりますが、さらに前者の言う「守ることの否定」と、後者の言う「依存の肯定」も矛盾しているようでありながら、実はつながっており、二つは一種のパラドックスになっていると考えてみると、今の生徒たちの置かれた状況の複雑な微妙さを、これらの逆説表現が言い当てているようでもあります。

今、「助けて」というサインを出せない生徒が増えています。高校生活への悩み、受験勉強での苦しさをうまく処理できずに、「大丈夫?」と問うと「大丈夫です」と答え、何のサインもないまま突然、学校に来なくなってしまう・・。

危険や苦悩から守ろうとそれを遠ざけることで現実の困難への耐性が失われると同時に、守られ(あるいは褒められ)ることで「失敗」できず、自分は優秀だとか、完璧でなければならないとか考えたり、あるいは傷つくことを極度に恐れたりすれば、自己を守るために弱みを人に見せることはできません。つまり、依存できない・・。

生徒はそんな状況を生きているのかもしれないと、ふと思ってみたりもします。依存も、逃避も、怠惰も、実は必ずしも「悪」なのではありません。

昔は・・と言うのは、それを聞く若い人には気分の悪いものにすぎませんが、子供時分はよく親に叱られました。

男三人の兄弟で、小さい頃はそれなりにやんちゃだったので、例えば、野球みたいなことをして窓ガラスを割れば、三人並んで母親にビンタされたり、悪いことをすれば、押入れや便所に閉じ込められもし、それでも業を煮やすと「お前は橋の下から拾ってきた子供だから、どこへでも行っちまえ」と言われたりもしました。

そんな話を今の高校生にすると「なんてひどい親だ」「虐待だろう」と言ったりするのですが、海辺の町に生まれ親が漁師だった同僚は「悪さをすると、必ず防波堤から海に投げ込まれた。俺は何度殺されると思ったか知れない」と言っていたので、それよりは善良なのかもしれません。

僕らの子ども時分、まだそんなに生活は豊かではなく、親は(多分)生きるのに必死だった。生活を成り立たせていくのにと言った方がいいかもしれない。ウチは農家だったから、朝は陽の上がる前に農作業に出かけ、夜は遅くまで夜なべをしていました。子供に等かまっている暇はなく、僕らもそれに慣れていましたし、怒られることにも慣れていました。先程の鷲田清一風に言えば、免疫力があったということになります。

でもそれは「親に感謝の気持ちがあって、罵倒されても仕方がない」などというキレイゴトとして意識されていたわけではなく、理不尽であるゆえに極めて日常的な在り方として了解されていたのだと思います。

「早く、親から離れたい」とも思ったし、「早く、この土地を出たい」とも思っていました。同時、自分という存在は(橋の下で拾われたゴミのように)「ちっぽけな」ものであってたいしたものではないという認識も知らず知らずのうちに形作られていったのだと思います。

それが果たしてプラスであったのか、マイナスであったのかは、今の僕にも分かりません。でも「ゴミ」という出発点に立てば、案外どんな否定にあっても耐えて来られたのは確かなのかもしれないと思ったりもします。


以前に勤務していた学校でのこと。7月のある午後、学校の玄関前の駐車所で父親と子供(生徒)が向き合っていました。といっても、父親の表情は険しく、子供の方は頭をうなだれていました。夏の三者面談の時期で、その面談の後だと思われました。

よほど腹に据えかねる「何か」があったのでしょう。父親が「このバカ野郎!」と大声をあげ、子供を殴りつけました。殴られた子供は体勢を崩したものの、すぐに父親の前に姿勢を正しました。坊主頭で、雰囲気からすると野球部の生徒ではないかと思われます。その子供を父親が再び「このバカ野郎!何考えてんだ!」と怒鳴ながら殴りつけ、子供はよろけながらも、再び、父親の前に姿勢を正しました。三度父親の怒号と鉄拳が浴びせかけられる・・。

今流の考え方であれば、あってはならないことなのでしょう。止めに入るべきだったのかもしれません。でも、不謹慎ながら何だか僕は久しぶりに懐かしい光景を見たような気がして、黙ってその場を立ち去りました。その後、その親子がどうなったのかは知りません。


こう書いたからと言って、そういう在り方がいいと言っているわけでもないし、かく言う僕も「強い」わけではありません。辛さにガラスのようなハートを痛める日々を生きています。

猫だけが「友」。猫をなでながら「猫になれれば」と日々思っています。
「生命をこめて怠ける」・・これは僕の到達した非常に崇高なパラドックスなのですが、なかなか理解されません。カミさんには「でも、あなたのは、きっと、ただ怠けているだけよね」と言われます。

・・「誰か僕を助けて!」ください。

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