第15話:水戸黄門
日曜日、久し振りに休みになり心地よく朝寝坊をした。朝、のんびりとテレビを見ながら朝飯を食べていると仮面ライダーをやっていた。僕らの世代の仮面ライダーとはまったく違うちょっと軽い趣きで、「今の仮面ライダーはこんななんだ」と違和感半分、懐かしさ半分に観ていた。
僕らが子供だった6、70年代は、今から思えばだいたいの子供向けのテレビ番組は「勧善懲悪」の話であった。ウルトラマン、ジャイアントロボ、マグマ大使、仮面ライダー、鉄腕アトム、エイトマン、サイボーグ009、海のトリトン、スーパージェッター、黄金バッドなどなど。
そう言えば、もうひと系統に「根性物」があった。巨人の星、柔道一直線、エースをねらえ、サインはV、アタックNO.1、などなど。
「善」と「根性」が大事にされていた時代だった。
時代劇もそうだった。大岡越前、暴れん坊将軍、遠山の金さん・・定番の時代劇が繰り返し放映されていて、確か月曜8時だった気がするが、そうした時代劇が茶の間の「空気」を作っていたような気がする。
水戸黄門もそんな時代劇の定番の一つ。インロウを悪人どもに見せ付けて助さんが叫ぶあの台詞は「魔力的」だった。
思い返してみると僕のオバアチャンはこの「魔力」に取り憑かれていた。妙なことにストーリーが展開しているときには一心不乱に編み物をしているのだが、番組終盤の「あのシーン」になると突然編み物の手を休め、テレビを食らいつくように見、三つ葉葵のインロウが取り出されて悪人どもがヘヘッーとひれ伏すと、思わず感嘆の溜め息をついて、それから再び編み物に取り組むのが常であった。
要するにオバアチャンには話の展開などどうでもよかったのであり、水戸黄門イコールあのインロウだったのである。これは水戸黄門というドラマの核心を衝いた見方であると僕は思うのだが、見方によれば、極度のワンパターンに過ぎないと言えるかもしれない。
いや、インロウを見せてすべてが解決するというこのドラマはワンパターンの典型であると言っても過言ではない。不正を働き、商人と結び付いて私腹を肥やす代官を黄門様がやっつけると話の相場は決まっている。
最初にインロウを見せていれば問題は簡単に片付いているはずだとか、水戸光圀の諸国漫遊は作りごとに過ぎないとか、非難しようと思えばいくらでもできる。
しかし、このワンパターンに僕らは何故か「はまる」。
もし、水戸黄門にインロウのシーンがなかったら、おばあちゃんは編み物から目を離さなかっただろうし、遠山の金さんが片肌脱いで遠山桜を見せるシーンがなかったら、あるいは寅さんが失恋せずにあの寂しい後ろ姿を見せることがなかったら、米倉涼子が「私失敗しないので」と言わなかったとしたら、たぶん僕らは「な~んだ」と思うに違いない。
決めぜりふも同じ。
などなど。
不思議と言えば不思議だが、僕らがワンパターンに「はまり」、決まり台詞に「はまる」のは、僕らが「変化」と同時に「平凡」を求めていることを示していると言えるのかもしれないし、「平凡」の中にあって、それゆえに単一で力強い「人間」の姿を感じてみたいという欲求だと言えるのかもしれない。いずれにしろ、日常というワンパターンの中で暮らしている僕らの、それは不思議な逆説である。
いつも恋人といる時のようなドキドキが人生にあるわけではない。
さてさて、インロウのない水戸黄門なんて「クリープのないコーヒー」よりも味気ない。
それだけでなく、一時期、忍者役で登場している由美かおるの入浴シーンまでがパターン化しつつあった。結婚当時、カミさんと一緒に水戸黄門を観ていた時、彼女の胸が一瞬見えてしまい、カミさんは思わず眉をしかめたが、僕はそれなりに良いシーンではなかったかと思ったりした。
そのカミさんは、このインロウの魅力を理解せず、インロウに興味を示さない。それどころか「弥七さんてステキね」などと言う。僕が「何故?」と聞くと、「だってピンチになると必ず出て来て助けてくれるじゃない。あの人、日本で一番強いと思うわ」などと世迷い言をのたまう。
弥七がピンチを救うこともひとつのワンパターンであることにワンパターンを軽蔑する彼女は気付いていない。カミさんが弥七をどう思おうと所詮浮気は出来ないのだから構わないのだが、水戸黄門を見て弥七に興味を示すようではまだまだ修行が足りない。
あのインロウのワンパターンこそが水戸黄門の真髄なのである。
(土竜のひとりごと:第15話)
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