第68話:雨とてるてる坊主
雨の降る日は
さびしくて
あなたに会ひに
ゆけません
雨は嫌ひでないけれど
あなたに会ひに
ゆけません
雨がやんだら
大好きな
あなたに会ひに
ゆきませう
いくつもいくつも
水たまり
とびこえとびこえ
ゆきませう
わたしはあなが
好きですが
うまくあなたに
言へません
とってもとっても
好きですが
うまくあなたに
言へません
雨はまだまだ
やみません
けれど
しづかに待ちませう
雨がやんだら
青い空
ぽっかり雲も
あるでせう
いつかあなたが
わたくしの
思ひに気づいてくれるまで
春風の吹く野のやうに
あたたかく
ただあたたかく
待ちませう
雨はまだまだ
やみません
窓にもたれて
ただひとり
雨をひっそり抱くように
しづかに
しづかに
待ちませう
雨はあまり好きではない。
息子が小さい頃、梅雨のある日に「雨、好き?」と聞いてみた。別にたいした返事を期待していたのではなかったが、息子は「ううん」と言い、続けて「ぼくね、あのね、いっぱあいお空、好き」と答えた。なかなか詩的な返事ではないかと、親バカながらそこはかとない感動を覚えた次第である。
そんな話をしながら、自分が天気に余り関心を払わなくなっていることに気がついた。通勤も車なので外を歩くのはせいぜい30メートル、雨でも傘も持たない。寒ければ職場では暖房がたかれ、暑ければクーラーも入る。
無論、湿気は不快だし、カミさんが乾かない洗濯物や体力を持て余した息子を抱えてボヤいたりもしたが、とりあえずいかなる天気であろうと僕自身の生活に大きな変化があるのでもない。
少なくとも明日の好天を祈って照る照る坊主を作ってみようかと思うような心のときめきや、天気予報に一喜一憂するほどの天気への関心は、今はない。農耕民族として四季の移り変わりや天候に鋭敏なはずの日本人の感性はこうやって消滅して行くのだなどと、そんなことを他人事のように思ってみたりもする。
学生時代はテニスをしていた関係で天気はいつも傍にあった。朝起きるとまず一番に窓を開けてその日の空を見た。厳しそうで案外のんきだった大学の練習は雨が降ると全くその練習場所がなく、自然、中止になったので、嫌いな雨も学食の長椅子に寝転びながらのんびりと聞いた。
春先に吹き荒れる関東の強風、うだるような日中の暑さを思わせる夏の朝の空気など、合宿所や下宿の布団に転がりながら、その日の練習のことを、そうした天気と共にしばらく考えた。
大切な試合の朝、晴れている空を見て自分の気持ちを徐々に試合に向けて行く。そういう気持ちのコントロールが難しい曇天。一日の練習が終わってホッとしながら通った欅並木の風のそよぎ、試合を終えた解放感から酔って道にひっくり返って見た晴天の夜空など、そんなふうに天気や周囲の風景はいつも自分の身体と結びついてあった。
天候だけではない。体調や手のひらの感覚も大事だった。右手では重い荷物を持つのは勿論、電車の吊革につかまるのも慎んだ。寝る時もラケットを身近に置いて暇があればグリップの感触を確かめた。降り続く雨を見ながら、そんな割と肌に染み付いていた感覚が、自分の中からなくなろうとしていることを、ふと寂しく思ってみたりしたのである。
それは必ずしもプラスの感覚でもなかったが、それから解放されればどんなに楽かと思いながら、しかし、そういう緊張に支えられて僕があったのだろうということを、今、思ってみたりする。
もしかしたらこれをストレスと呼ぶ方法もあるかもしれないが、だとしたら、ストレスとは大切なものを必死に守ろうとする思いなのだろう。
恋も、「恋」であるがゆえにストレスである。
冒頭の詩は恋する女性の立場で「雨」を書いてみたが、当然のことながら、恋のどきどきもなくなった。老いらくの恋に道を踏み外す老人がいるのも、そうした思いへの懐かしさがなせる業かもしれない。
照る照る坊主 あなたとつなぐ手がほしい
■土竜のひとりごと:第68話
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