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浜崎あゆみ

定時制に勤めていた時、教科書ばかりではつまらないので、新聞のコラムや絵本、昔話、日本語のクイズとか、いろんなものを持ってきて授業をした。

大学を目指すわけでも、成績が彼ら彼女らにとって何かの利益になるわけでもなかったので、そのあたりは割と気ままだった。気ままだったというと言葉は悪いが、受験に役に立つ知識みたいなことばっかりやっているより、こちらの方が僕にとっても国語っぽくて楽しかった。

ある時、詩の授業をやろうと思い、何かいい詩はないかと探していると、当時、流行っていた浜崎あゆみの曲が目についた。僕はあまり音楽を聞く方ではなく、洋楽は勿論、日本の歌謡曲・J-pop にも縁遠い。
大学に入った年に松田聖子の「青いサンゴ礁」が巷で流行っているのは耳にしていたが、帰省して紅白歌合戦を見て初めて松田聖子という歌手が歌っているのを聞き、「ああ、この人が歌ってるんだ」と思った。
だから浜崎あゆみの曲についても深く知るわけではなく、聞きかじったに過ぎなかったのかもしれないが、それでも「いい歌」として耳に残っていた。

そこで早速、歌を文字に書き取ってみたのだが、そこで驚いた。
こんな不遜な言い方をしたらファンに叱られるだろうが、「詩の授業に耐え得る詩ではない」と思った。簡単に言えば「歯の浮くようなフレーズの継ぎはぎに過ぎない」と思ったのである。

これは浜崎あゆみを冒涜しているわけではない。
それに引き続いて、いくつかの曲を文字に起こしてみたが、どれもこれも、同じようだった。「好きだよ」とか「愛してる」「君が欲しい」とか、深みのない直截的な言葉の連呼でしかないと思われ、授業に取り入れるのは諦めると同時に、「そういうことなんだ」と「歌の歌詞」の正体を見てしまったような気がしたのだった。

「いい歌だと思ったんだがなあ」と失望のようなものを思ってみたのだが、しかし同時に、「いい歌」だと感じたことと、この「失望」の落差の原因はどこにあるのかとも思ってみた。

恐らくその失敗は「歌詞を文字に起こした」ところにある。歌は本来、曲は勿論だが、歌手の歌声、ファッション、人柄、ルックス、時や場所当時の「社会の空気」までを背負って成り立っているものであって、大げさに言えば、その総体から感じられるものでなければならないという視点が欠けていたからである。

人形のような大きな目、ネイルアート、金髪、大きなサングラス、ちょっとハスキーな声、なんとなくセクシーな雰囲気。女子高生のカリスマと言われた当時の浜崎あゆみの口から発せられる「詞」は、単なる「詞」ではないメッセージ性をもっていたに違いない。

簡単に言えば、僕が「好きだよ」と歌ったところで女性諸氏は誰も見向きもしないだろうが、福山雅治が歌の中で「好きだよ」と語れば、それだけで「ステキな歌だ」と思う女性も多いだろう。「歌」から「歌詞」だけを独立させるのが誤りだということになる。

そうでなければピンクレディは存在しえなかった・・。

全体を捉える・・それはすごく大事なことなのだが、案外僕らは何かを考えたり論じたりするとき、切り離した一部を見てしまいがちになる。
その一部というのを「意味」と置き換えるのは飛躍かも知れないが、僕が浜﨑あゆみの歌に求めていたのは「意味」であり、案外、僕らは「意味」に囚われて生きている気がする。
演劇や映画を見るときも、文学作品を読むときも、何か「意味」を見出そうとしていないか? ところが、「意味」のみを切り取って見ても、本当にそれが「実体」を表していると言えない。そこに「実体」は「実感」されないということになる。

「意味」とは何だろうか? 

同じように、人と接する時、「意味」を見ていないか?
馬鹿みたいな例だが、若者は異性を見るとき、男ならば女性の顔や髪や胸やお尻に視線が集中するとある社会学者は言う。種の保存上それはやむを得ないこととは言え、それではその女性を「見た」ことにはならないだろう。
同じように女性は女性と街ですれ違う時は、洋服やバッグやアクセサリーに目が行くのだとその社会学者は言う。
「意味」とはそうすると、自分に「価値」のある現象への評価だということになる。

しかし、「意味」や「価値」のカタマリである人間はいない。「無価値」や「無意味」や「役に立たない」ものを含んだ総体として「生き生きとした人間」があり、そういう「無駄」こそが人間なのであろうと思う。


閑話休題、僕の無能さを言う人が多いが、それは「無価値の価値」を知らない未熟な人であり、故に僕の授業での寒いダジャレに笑わない輩は「意味」に束縛されている人と言えよう。
数々の一見くだらぬギャグ、例えば、

伊勢物語で自らを「無用者・無価値」と規定した在原業平を、伊勢物語は各章の始まりに、「昔(ムカチ)、男、ありけり」と書いた・・。

などというオヤジギャグを臆面もなく言う僕の無用性は、無価値を是とする僕の総体としての哲学的在り方に基づくものであり、実は敬意の対象とならねばならないものなのである(笑)。

意味とは、一部でしかない。

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