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第188話:浜崎あゆみ

定時制に勤めていた時、教科書ばかりではつまらないので、新聞のコラムや絵本、昔話、日本語のクイズとか、いろんなものを持ってきて授業をした。

大学を目指すわけでも成績が何かの利益になるわけでもなかったので、そのあたりは割と気ままだった。気ままだったというと言葉は悪いが、受験に役に立つ知識みたいなことばっかりやっているより、こちらの方が僕にとっても国語っぽくて楽しかった。

ある時、詩の授業をやろうと思い何かいい詩はないかと探していると、当時、流行っていた浜崎あゆみの曲が耳に入ってきた。
僕は音楽には無頓着で、洋楽は勿論、J-popとも縁遠く、例えば、大学に入った年に松田聖子の「青いサンゴ礁」が巷で流行っているのは耳にしていたが、帰省して紅白歌合戦を見て初めて「ああ、この人が歌ってるんだ」と思った。
だから浜崎あゆみの曲についても深く知るわけではなく、聞きかじったに過ぎなかったが、それでも「いい歌」として耳に残っていた。

そこで早速、歌を文字に書き取ってみたのだが、そこで驚いた。
こんな不遜な言い方をしたらファンに叱られるだろうが、「詩の授業に耐え得る詩ではない」と思った。簡単に言えば「歯の浮くようなフレーズの継ぎはぎに過ぎない」と思ったのである。

浜崎あゆみを冒涜しているわけではない。
それに引き続いて、いくつかの他のラブソングを文字に起こしてみたが、どれもこれも同じようだった。
「好きだよ」とか「愛してる」「君が欲しい」とか、いわゆる行間を読むに欠ける直截的な言葉の連呼でしかないと思われ、授業に取り入れるのは諦めると同時に、「そういうことなんだ」と歌の歌詞の正体を見てしまったような気がしたのだった。

「いい歌だと思ったんだがなあ」と失望のようなものを思ってみたのだが、しかし同時に、「いい歌」だと感じたことと、この「失望」の落差の原因はどこにあるのかとも思ってみた。



恐らくその失敗は「歌詞を文字に起こした」ところにあった。
歌は本来、曲は勿論、歌手の歌声、ファッション、人柄、ルックス、時や場所当時の「社会の空気」までを背負って成り立っているものであって、大げさに言えば、その総体から感じられるものでなければならないという視点が欠けていたのである。

人形のような大きな目、ネイルアート、金髪、大きなサングラス、ハスキーな声、なんとなくセクシーな雰囲気。女子高生のカリスマと言われた当時の浜崎あゆみの口から発せられる「詞」は、単なる「詞」ではないメッセージ性をもっていたに違いない。

簡単に言えば、僕が「好きだよ」と歌ったところで女性諸氏は誰も見向きもしないだろうが、福山雅治が歌の中で「好きだよ」と語れば、それだけで「ステキ!」と思う女性も多いだろう。
「歌」から「歌詞」だけを独立させるのが誤りだということになる。

そうでなければピンクレディは存在しえなかった・・。


全体を捉える
・・
それはすごく大事なことなのだが、案外僕らは何かを考えたり論じたりするとき、切り離した一部を見てしまいがちになる。

その一部というのを「意味」と置き換えるのは飛躍かも知れないが、僕が浜﨑あゆみの歌に求めていたのは「意味」であり、案外、僕らは「意味」に囚われて生きている気がする。
演劇や映画を見るときも、文学作品を読むときも、何か「意味」を見出そうとしてい流かもしれない 「意味」のみを切り取って見てもそれが「実体」を表していると言えず、「実体」が伴うディテールや総体としてのイメージが全体として「実感」されているということになるのだろう。

「意味」とは何だろうか? 

同じように、人と接する時、僕らは「意味」を見ていないか?
お叱りを受けそうな例だが、道で異性とすれ違う時、男性は女性の胸やお尻に視線が集中するという実験結果を得たと、ある社会学者は言う。種の保存上それはやむを得ないこととは言え、それではその女性を「見た」ことにはならないだろう。
同じように若い女性は女性と街ですれ違う時、洋服やバッグやアクセサリーに目が行くのだとその社会学者は言う。

「意味」とはそうすると、自分にとって「価値」のあるものへの評価だということになる。

しかし、他人のために「意味」や「価値」のカタマリである人間はいない。
声、仕草、ヘアースタイル、服装の趣味、外ヅラと内ヅラ、寝起きの悪さ、寝相、足の臭い、ウエストの太さ・・あやゆるその人を含んだ総体として「生き生きとした人間」であるのであり、「地位」や「富」や「イケメン」や「有用」とかいう一面で判断されるべきではないし、切り取った一つの側面だけで判断されるべきでもない。


例えば、お金も地位もなく、身長も165cmしかなく、仕事上ほとんど無用者に近い僕であっても、2、3人の人には愛されている(と信じてたい)。

共通テストは胸痛テストだ」
などという素晴らしい寒いギャグを臆面もなく言う僕は、一面で何の役にも立たないジジイではあっても、「無価値の価値」を身をもって実践する人間として理解されなければならない。

ひょっとすると「本当の意味」は「無意味」の中に潜んでいると言えるかもしれない。


■土竜のひとりごと:第188話


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