第211話:ないことの証明
小学生の時分に友人から何も書かれていない年賀状が届いたことがあった。
白紙の年賀状というのはなかなかに奇怪なもので、例えばみなさんも自分が白紙の年賀状を受け取った時のことを考えてみていただきたいのだが、それは多分、まったく奇異な出来事なんだろうと思う。
今であればパソコンのプリントミスだろうと、差出人の粗忽さを笑ってもみるところだが、僕が小学生だった昭和40年代にはそんなものはなく、まして小学生の書く年賀状と言えば10枚程度、しかも手書きであった。
嫌がらせかもしれないと思ってもみたいところだが、彼とはそんな関係ではなく、純真な小学生であった僕はこれは何か仕掛けがあるに違いないと考えた。
そこでいろいろ試しにかかった。
しかし、
炙り出しではないかと思って火にかざしてみたが何の変化もない。
何か出て来るかと思い水に浸してみるが何の文字も出てこない。そのまま洗濯バサミにはさんで日光にさらしてみるが何も変わらない。
ひょっとしたら宛名面に何か隠された暗号が潜んでいるのかと一生懸命探ってみるが、やはりそれらしいものは見当たらなかった。
何も書かれていない年賀状に「何も書かれていない」と納得するまでに、なかなか苦戦したのである。
「ない」ことを証明することは至難の業なのである。
かつて図書館に勤務していた時にも同じことを感じた。
調査課という部署にいて、一般の方からの調査依頼を受けそれに回答するレファレンスという業務をしていた時期があった(悪戦苦闘の状態はもしよろしければこちらを)。
そんな質問の中でも、やはり「ある」のか「ない」のか不明確な事実についての質問は厄介だった。苦労したことだけは覚えていて質問自体はあまり覚えていないのだが、例えば、
こうした質問は当時の地誌や新聞記事、史書などを網羅的に見ていかなければならない。いわゆる「力わざ」の調査になる。
「ある」ことが証明されるまで、それが「あった」記述を探さねばならない。
しかし、調査にも限界があり必死に調べてもそうした事実が見つからない場合には、調査した文献を提示しつつ「確認できませんでした」と回答することになる。「ある」とも「ない」とも言えないので「確認できない」という事実を提示するわけである。
調査の過程で一度だけ「○○という事実はない」という記載に出会ったことがあり、その時にはえも言われぬ感動を味わったことを覚えている。
不思議と言えば不思議だし、当然と言えば当然のことなのだが、面白いと思うのは「なかったことは書かれない」ということである。「○○はなかった」という記述は、それが「ない」ことに特別な意味がない限り書かれない。
「ない」ことの証明が困難な所以である。
僕は僕でそんなことを思ってみたのだが、調べてみると「ないことの証明の困難」はよく言われることであるらしく、これを「悪魔の証明」とか「消極的事実の証明」と呼ぶらしい。
例えば、ネッシーや河童、ツチノコ、UFOでもいいが、それが「存在しない」ということを証明するのは確かに難しい。
平安時代の日本に堀北真希という女性がいなかったということも、ひょっとしたらいたかもしれないという可能性を否定することは全くもって困難なのである。
冤罪事件もこれに類する問題かもしれない。
かつて「それでも僕はやっていない」という映画があったが、痴漢として捕まえられた男がその無実、痴漢行為がなかったということを立証する難しさを描き出していた。
ネッシーやUFOがいるかいないかは、それはそれで「ロマン」のある話なのかもしれないが、冤罪はそうではない。無実のまま死刑になってしまったケースもある。罪がでっち上げられ服役中になくなってしまった事件・・。
困難では済まされない。
それを証明できないのは社会の非力・暴力と言えるかもしれない。
さらに社会の非力は、権力に「あったこと」を「なかったこと」にする暴力を許してしまう。
水俣病を訴える市民のマイクを切って、その声を「ない」ものにしようとする。
不都合な「文書」が消される。
誰かがどこかで決めなければ起こるはずのない裏金、キックバックの判断が「なかった」とされる。
何か不正が起こるたび「記憶にない」という言葉が繰り返される。
河童の存在は証明困難だとしても、間違いなく「あった」不正はそれを当事者が明言すればいいだけの話に過ぎない。
その勇気と誠意が「ない」。
言葉を弄するようだが、過去(歴史)は膨大な「あった」のに「なかった」ことの累積によって成り立っている。僕のようにちっぽけで、名もなき庶民の人生がそうである。
なんだか思わず語気が荒くなってしまったが、その懸命に生きている「ちっぽけさ」に敬意を払うのが政治だという気がする。
■土竜のひとりごと:第211話
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