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45歳の新米図書館司書

40代の後半、4年間、図書館に勤務していたことがあった。

会う人ごとに、教師クビになったの?何かしたの?下着でも盗んだ?と怪訝な顔をされたが、悪さをして教員をクビになたわけではなく、初任からいわゆる普通高校で16年過ごした頃、何だか学校や教師というものがよくわからなくなり、違った世界を見てみたくなったのであった。希望するままに、特別支援学校に3年、定時制高校に3年、行かせてもらい。その後4年間を図書館で勤務した。

司書の資格を持ってはいるが、若い頃に取った上に現場での実務経験はないので、基本的に仕事は0からの出発といってよかった。まさに転職して新しい職に就いたと言ってもいい、45歳の新米であった。

属したのは調査課という部署で、乱暴に言えば、二つの仕事をしていた。
ひとつは県に関係する資料を網羅的に収集して、利用者が使えるように、その本や冊子のデータをシステムに入力する仕事。
もうひとつは調査課員として利用者の質問に答えるサービス。これをレファレンスサービスと言い、手紙やメール、電話で寄せられる質問、また、一日2、3時間は閲覧室のカウンターにいて利用者から直接受ける質問に図書館資料をもって回答することになる。

しかし、ひと言で言えばそうなのだが、これが難しい。特にレファレンスは五里霧中、あらゆる分野のあらゆる質問に対応しなければならない。
・会計デューデリジェンスについて教えて欲しい(経済)
・遊具の事故に関する判例を知りたい(法律)
・闘茶の方法を知りたい(文化)
・愛について小学生に考えさせるアプローチ(教育)
・マッタの絵が見たい(美術)
・伊豆の踊子の中に出て来るスペイン風邪は実際に流行したものか(文学)
・この地域に○○という神社が明治時代に存在したか(歴史)
などなど。

こうした雑多な質問を書庫に入って調べ、回答を作ることに一日の大半は費やされ、22:30頃まで仕事が続く。それでも徐々に調べ方のツールに馴れ、時間をかければ何とか回答は可能だった。
しかし、もっとも厳しかったのはカウンターに座って質問を受け、その質問に即座に答えなければならないことだった。文学しか知らず、経済や法律などまったく0の僕には、カウンターに座ることはほとんど恐怖に値したのである。

中には新米と見ると力を試しに来るオジサンもいて、
「古い辞書を出せ」
と言うから古い辞書を持っていくと
「もっと古いのだ」
と怒られ、もっと古いのを持っていくと
「このことばが一番古いのが載っているやつだ」
とまた怒られ、そのことばが載っているものを持っていくと
「もっと古いのだって言っているだろう」
と怒鳴られ、最終的に平安時代の古辞書の影印本を必死で探し当てて持っていくと、
「それだよ。やればできるじゃないか」
とやっと許してもらえたこともあった。

またある時は、人物の写真が載っている本を示されて、
「これじゃないこいつの写真を持ってこい」
と言われる。これじゃないものと言われても、これが何なのか新米の僕には見当がつかず、タイトルや本をめくりながら、これが何であるのか考えていると、
「眺めてたってしょうがねえだろう。早く持ってこい」
と怒鳴られる。わけがわからず、怒鳴られているより他にない。

かくて毎日が失意のうちに暮れていくのであって、「ああ俺は何をやっているんだろう」と思う。覚えることは無限にあり、システムの蔵書検索方法、著作権の知識、6つある書庫のどこに何があるということ、マイクロフィルムの使い方、データベースの利用方法、あるいは電話の取り方まで、分からないことだらけなのである。脳がキャパを完全に超えていた。

一方で利用者は図書館の人間であれば何でも知っていると思っているから、そのギャップは大きい。大概の利用者は感じよく接してくれるのだが、45歳の新米は答えられずに冷や汗を掻いたり、間違えたことを言って後で後悔したりと、タジタジ、オロオロ、小さくなって毎日を暮らしていたのである。


その頃、コンビニに立ち寄って煙草を買った。
レジの女の子は明らかに新米のアルバイトで、僕はそのとき煙草を4つ買ったのだが、「こちらはそのままでもよろしいですか」と聞く。
それはごく自然な応対なのだが、僕が「いいですよ」と答えると、丁寧にその4つの煙草のひとつひとつにオレンジのテープを貼ってくれた。
コンビニでは万引き防止のために、袋に入れない商品にはテープを貼るのだが、(多分)煙草はカウンターでのやりとりなので個々にテープを貼る必要はないのである。
僕はそれを見ながら、「そう、そう。そういう細かいところがいちいち分からないんだよね」と心の中で大きく頷いたのであり、何だかその女の子に限りない共感と、抱きしめてあげたいようないとおしさを感じたのであった。

それから4日間、煙草を吸おうと胸のポケットから箱を取り出すたびに、そのオレンジのテープを見ながら
ガンバレ。新米!
と自分につぶやいてみたのである。


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