高校生に語る言語論

※タイトルどおり、国語の授業で言語論に関する評論を読んだとき併せて生徒に話す内容をエッセイ風にまとめました。そのつもりでお読みください。

■1:ウォーリーを探せ
コトバが世界を分節する)

僕らはモノコトがまず先にあって、それにコトバが付けられると考えがちですが、そうではありません。
逆に人間はコトバによって外界を切り取る・切り分けることで、渾沌とした世界を認識しているのです。ちょっとハテナ?マークですか。言い方を変えると、モノ・コトが先にあるのではなく、コトバが先にあるという考え方です。この「切り取る」ことを分節すると言います。

はじめて聞くと違和感があるかも知れません。世界は渾沌として区別できないものだという前提もわかりにくいかもしれません。
たぶん正確ではないと思いますが、例えば、澁谷のスクランブル交差点でワーッと人が流れている状態をイメージしてみた時、それはある意味、混沌とした世界?でしょう。しかしその中を、例えば堀北真希が歩いてくれば「あっ堀北真希だ」と認識できます。それは堀北真希という名前によって彼女を切り取ってくるからです。
同じ理屈がウォーリーを探せという絵本に成り立ちます。僕らはこれを見る時、ウォーリー以外は認識しません。誰がいるかも、何があるかも気にしない。僕らがウォーリーを認識するのはウォーリーという名前によって彼を世界から切り取ってくることで彼を成立させているからなのです。
運動会で自分の娘のビデオを撮る・・自分の娘しか見えない・・他の子は区別不能な「渾沌」でしかありませんね。

それでも、コトバモノコトより先にあるという考えはわかりにくいかもしれませんが、こんな例はどうでしょう。
イギリス人の女性が日本に来て肩こりというコトバを知ってから肩こりを感じるようになったという話があります。肩こりというコトバを知らなかった時には感じなかった肩こりが、コトバを知ることよって始まったことになります。つまり、肩こりというコトバがなければ肩こりは存在しないことになるのです。

ですから、コトバが世界を分節し、モノやコトを僕らに認識可能なものとしているのであって、モノコトがあってそれに名前がついているのでも、モノコトコトバが単語帳のように一対一対応しているのではないのです。

2:霙・霰・雹を読める?
(分節・世界の切り取り方は恣意的)


そうやって人間はコトバを与え、外界を分節するのですが、その分節の仕方は恣意的なものです。難しい言葉ですが、恣意の「恣」は「ほしいまま」と訓読されます。簡単に言えば「勝手」という意味。ただ誤解を避けるためには「国境は恣意的な線だ」という言い方で記憶するといいと思います。そうである必然性がないという理解が正しい。
混沌とした世界をコトバで分節することで僕らは世界を認識しているわけですが、その切り取り方・分節には、そうであるべき必然性がない、ということです。

例を挙げた方が早いですね。
例えば、霙・霰・雹。これを読めますか?
「みぞれ・あられ・ひょう」です。
では、それぞれを区別できますか?霙はシャーベット状だからわかりやすいと思いますが、霰と雹の区別は?
気象学的には直径5ミリの小・大で区別しているということです。

では、同じように霧・霞・靄が読めますか?
「きり・かすみ・もや」です。
では、これを区別できますか?
霧と靄は気象学的には、見通しのきく距離が1キロで区別され、霧の方が靄より濃く見通しがきかないということになります。一方、霞にはそうした気象学的区別はありません。ただ文学的には霞は春、霧は秋に用いられるという違いはあります。
要するに、霙・霰・雹、霧・霞・靄の側にそう区別される必然性があるわけではなく、人間が勝手にそう区分しているわけです。

ボラを、オボコ(スバシリ)→イナ→ボラ→トドと呼び替える出世魚なども、その典型的な例でしょう。英語ではbrotherが一語であるのに対し、日本語では兄と弟に区別されるのも同じです。

そうしてみると、それぞれを区分している基準は、対象の側にその必然があって分けられているのではなく、人間が恣意的に分節しているだけだということがわかります。
同時に、最初に言ったように、モノ・コト、例えば、靄という状態があって、それに靄という名前が付いたのではなく、もやもやした水蒸気(渾沌)に人間がコトバを与え切り分けたものだという考え方も理解できると思います。


3:僕は木村拓哉であったかもしれない!
(モノ・コトとコトバの関係は恣意的)


世界の分節が恣意的であると同時に、分節されたモノやコト(概念)とコトバ(記号)の結びつきにも必然性はなく、人間によって恣意的に定められたものです。

例えば、自分の名前は勝手につけられたもので、自分がそう呼ばれる必然性はありません。
あなたは自分の名前が好きですか?
改名したければ木村拓哉とつけてもいいし、堀北真希はひょっとしたら、新垣結衣だった可能性もあったはずです。これまで見てきた例を思い返しても、霞が霞であり、霰が霰と呼ばれる必然性はないわけです。

日本語でと呼ぶものを英語ではドッグと呼び、鳴き声を日本語ではワンワンと言い、英語ではバウワウと言う。どう呼ぼうが構わない、というと語弊があるかもしれないが、そのコトバで切り取られる必然性は、そのモノ・コトの側にあるわけではありません。


■4A:風邪は病名じゃない!
(コトバの概念は人間を規定する)

コトバは混沌とした世界にかたち(秩序)を与えくれます。
例えば、不調な日々が続いたとき、その不調を病院で訴えても、病名がわからないと僕らは深刻な不安に陥ったりします。逆に何でもいいから病名を与えられると安心や覚悟ができたりするものです。
病院でよく「風邪ですね」と言われることがあって、「ああ、風邪か」と思いますが、実は風邪というのは病名ではないそうで「あんたのは大した病気じゃないから安心しな」というのが「風邪」の正体なのだそうです。

感情についても同じことが言え、自分のモヤモヤした思いに、例えば「虚しい」とか「やるせない」とか、はたまた「それはシルレルだね」とか、何でもいいからある形容詞を与えられると、「ああ、そうなんだ」と納得できたりします。それは大事なコトバの役割だろうと思います。

ただ一方で、コトバを与えられた(与えた)瞬間にそのコトバが持つ意味に自分が整えられてしまうという側面も否定できません。もっと自分の中にはモヤモヤとした何かがあるのに、それらがそぎ落とされて、そのコトバの持つ概念に寄り添わざるを得なくなる。つまり、コトバによって自分が規定されるということになります。コトバにはそういう側面があります。


■4B:日本語に拘束されている?
(コトバは社会文化コードに基づく記号として人間を規定する)


さらに言えば、コトバの恣意性は社会や文化のコードに基づいて人間を規定するものだという言い方もできます。
コードというのは簡単に言えば規定・規則・約束ドレスコードという言葉がありますが、これは服に関する約束であって、葬式にウエディングドレスを着ていったら非難されるに決まっています。どういう衣装を着ていくかは、それぞれの社会や文化が築いた規定に従います。

コトバも社会や文化によって育まれたものです。
例えば、語(分節)の数はその社会、文化の関心を表していると言われますが、雨のオノマトペが日本語に数多あるのは、日本が雨の多い湿潤な国だからでしょうし、月の名前の多さは逆に星への関心の薄さを表しているかもしれません。英語ではriceという一語で表されるものが日本語ではイネ・コメ・ゴハンと区別されるのは日本が稲作社会であったからでしょう。

ただ、単に「関心」という問題だけではなく、コトバは人間の視点・思考を規定する働きを持っています。
英語のbrotherが一語であるのに対し、日本語では兄と弟に区別されのは、英語圏が兄と弟を区別しない社会であるのに対し、日本は兄と弟を区別する社会だということを意味しています。それは基本的には長男が「家」を継ぎ存続させていく家長制度のシステムの反映でしょう。さらにたどれば、日本でも伯父、伯母と叔父・叔母が区別されるように、伯仲叔季という中国において兄弟を区別する影響を受けているのかもしれません。
逆に考えれば、日本語を使っている僕らは知らず知らずのうちに兄と弟を区別する考え方を身につけてしまっていることになるわけです。

みなさんは英語で寝言が言えますか?
ひょっとしたら、そのくらいになれば日本語と日本語を築いた社会文化の束縛を逃れられるのかもしれません。コトバは、その社会文化を背負い、人間の視点、思考を規定する働きを持つ、そういう側面があるものなのです。

以上です。終わりましょう。

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