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第55話:電子レンジとつばさの党

最近、カスハラがクローズアップされている。

モンスターペアレンツもその一種であろうか。
僕も「うちの息子の体育の成績が10(10段階評価)でないのはおかしい」と言う母親からの苦情の電話に対応したことがある。「必要であればお子さん本人が体育の教員に聞きに行けばちゃんと説明するはずです」と言うのだがなかなか引き下がってくれない。
何かにつけてクレームを言ってくる母親で、これといって明確な根拠があるわけではないのに、「うちの子は10であるべきだ」という主張を繰り返されても困るわけである。
電話を切ってくれるまで一時間ほどかかった。

有名な話なので今更という感じもするが、アメリカで濡れた猫を乾かそうとして電子レンジに入れて死なせてしまったという話がある。事実かどうか疑わしいそうだが「権利」とか「個人」とかいう話をする時の雑談として授業で話すことが何度かあった。

高校生には新鮮な話で、馬鹿げた話だと生徒たちは笑って聞いているのだが、飼い主は「猫を入れてはいけない」と説明書に書いていなかったという理由でメーカーを訴え、しかも、驚いたことに見事にその人はその裁判に勝った。
勝訴の理由は「猫を入れたら猫は死ぬ」と説明書に明示されていなかったということだった。そんな事情でアメリカ製品の解説書は異常に長く、異常に詳しいものが多いということだそうだ。

そういう顛末を語ると、当然、馬鹿げた話だと生徒たちは思うわけで、そんなのは腕時計の説明書に《食べると胃に良くない》と書いてないのと一緒だと思うわけである。
昨今で言えばカスハラの代名詞のような話かもしれない。

でも、その種の話はアメリカには結構あって、訴えによって細かな状況の違いはいろいろあるようだが、スターバックスやマクドナルドのコーヒーとかチキンナゲットで火傷をしたと言って訴え、高額(何千万とか、億とか)の治療費を勝ち取ったという訴訟事例も実際にあるらしい。

そんなことなら僕にも訴えたいことは山ほどある。

こうした話の馬鹿馬鹿しさは、「自分の責任じゃねえの」という素朴な違和感なのであって、しかもそれを否定できない「制度」に「何やってんの」みたいな素朴な違和感であるのであって、「自由」を追及して来たアメリカが落とし穴にはまり込んでもがいているのではないかと思ってみたりするのである。

「自由」って「自由なこと」だよね。

そう誰かに問うてみたくなる。
個人主義が目指した「自由を行使する主体」には「責任」が伴うわけだが、それは何か失態をしでかした時の「罰」なのではなく、「お前には無理だ」とか「お前の代わりならいくらでもいる」と言われた時の失望感を考えれば実感されると思うが、責任を取れないことが自分が行為の「主」として認められていないことを意味しているのである。
それはある意味では「責任」というものが、制度が許そうと、あるいはそこにどんな抜け道があろうと、自分自身の問題として自分を「被害者」にしないことだと言い替えられるかもしれない。
被害者であれば加害者を想定して責めるだけでいい。それは楽だが、きっとそれは「非・自由」なことに違いない。

一番の被害者はレンジの中で回されてしまった猫君であったろう。

「権利の上に眠るものは保護に値せず」と言われる。「権利意識」の乏しい日本人にとっては、勝ち得た制度や権利を守るための大切な格言だが、権利の行使に慣れると「権利」を濫用したくなるのも人間の常であるらしい。

権利の行使と濫用の一線を画すのは「良識」に違いない。
もっと雑な言い方をすれば「馬鹿馬鹿しいか否か」という一語で片付けられる問題だと言えるかもしれない。

ここから本論である。

先日の衆議院の東京15区の補欠選挙での「つばさの党」の選挙妨害行為があった。これは今書いてきたようなこととも違い、故意に「加害者」であろうとして「無責任」な行為をしているのであって、まったく質が悪い。

最悪だろう。

当人たちが「表現の自由の範囲内だ」と主張しているのも馬鹿げた話であるが、これを「選挙妨害か?表現の自由か?」と有識者?が迷うのも、およそ馬鹿げた話でしかない。

「馬鹿者!」と親に怒鳴りつけられてほしい。

(土竜のひとりごと:第55話)


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