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第161話:心のバランス

こころのバランス・・などというタイトルを付けながら、テニスの話から書き始めるので自分には関係ないと思われるかもしれないが、少し遠回りをしながら書き始めてみたい。

小心な僕は高校時代、試合でよく上がり、これに苦慮した。どうすれば平常心でプレーできるか、それは技術を磨く以上に重要な課題であり、さまざまに考え、またさまざまに悩んだ。

技術を高め自信を持つとか、常に試合を意識して練習するとか、声を出すとか・・そんなことがよく言われるが、迷っている自分を消すことはなかなかに難しい。

真面目にやればやるほど、小さい自分を感じてしまい、かといって要領よく、いい加減にやるだけの度胸もなかった。

しかし、大学になってからは迷っていることが許されなかった。鬼のように怖い先輩とペアを組んだからだ。その先輩に徹底的にたたき込まれたのは頭を使うことだった。

ゲームをどう組み立てるか?このカウントですべきことは何か?試合が終わると、対局後の棋士が棋譜をたどるように、試合の一本目からラストポイントまで、どう考えてどうしようとしたかを、ほとんど怒鳴られながら反省させられた。

それは技術的な訓練であったのだが、しかし、そうしたことをしているうちに、試合の中で考えられているときは不思議に平常心でいられることにも気付いた。頭を使うことで迷う自分を消すことができる・・。



人間の意識の働きはおもしろい。

あることをそう思うと、その状態にどんどんはまりこんでゆく。緊張していると思えば緊張はより高まり、スランプだと思えば余計にスランプに陥っていく。サーブが入らないと自覚してしまうとますますサーブが入らなくなってしまう。

例えばバイクで走っていると、タイヤの筋道に石が見えることがあり、まずいと思ってこれを避けようと思うが、目線が石を見ているときにはこれを避けられない。何故か目が見ているものに吸い込まれるようにバイクが走っていくのである。避けるためには視線をはずす必要がある。

こんな話を聴いたことがあるのだが、片足にけがをしている犬がいて、ほとんど脚をつくことが出来ず、跳ねるようにしか歩けない状態なのに、けがをしていないもう一方の脚に針を刺して痛みを与えると、何事もなかったかのように平然と両足をついて歩きだすのだそうである。

だから、うわずっている気持を落ち着かせるためには、それを忘れさせる別の意識を働かせることが良策であるということになる。

言い方を変えると、それは意識的にバランスをつくることだと言えるかもしれない。働く意識に対して、もう一方でも別の意識を働かせることでバランスを取るのである。

テレビ番組の中で、ある専門家が安眠についてこんなコメントをしていた。

体が休もうとしているとき外からの刺激があるとうまく休めないので、灯りは消した方がいい。
しかし、何か心配事などがあって眠れないときは、心が外に向かってあふれ出てきてしまうので、逆に静かな音楽や弱い灯りで外部から弱い刺激を与え、お互いが相殺されるようにした方がいい。

これは自分の心と向き合うときのヒントになる。

心を扱うことは難しい。ひたすら自分の心と率直に向き合うことは勿論大切であって、多くの文学者や芸術家はそういう苦しみの中で作品を完成させてきたのだとも思う。

ただ、毎日の現実を生きる僕らにとって、それが自分の心にとってさらなる負担を強いてしまう場合は、その心をうまく別の何かで相殺することも大切な生きる技術であるかもしれない。

それは「自分から逃げる」ことではなく、うまく「自分を逃がす」ということであり、同時にそれは「弱さ」とか「心」とか「人格」とかの問題ではなく「技術」の問題なのである。

どこかに同じことを書いたような気もするが、石川啄木は仕事が忙しいときは楽だと言った。なぜなら、自分について考える時間がないからだと。止まればそこに自分と向き合わなければならない余裕が生まれてしまう。自分について考えることは苦しいのである。

心が疲れたときには休むといいとよく言われるが、ただ休んでいるだけでは心の声が聞こえてきてしまう。その点、昨今流行の癒しには限界があるとも言えるだろう。休んだところで何も解決しないことは多い。

むしろ別のことに一生懸命になって「心を動かす」ことで「我を忘れる」ことが良策なのだ言えそうだ。

自分を忘れる技術!

だから僕は毎日仕事に疲れた振りをして、それこそ一生懸命に怠けているのである。
・・が、最近はボケて来て、意識せずとも自分を忘れることが多くなり、それが不安の種となっている。どうしたらいいだろう?と思い悩むこの頃である。


■土竜のひとりごと:第161話

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