第203話:焦るAI
数年前のインハイの地区予選。テニスの団体戦が行われる日の朝、試合会場に向かうために早起きをして出たのだが、途中で道が渋滞し先に進めなくなってしまった。
御殿場に住んでいるので、富士方面に向かう時には東海道ルートではなく、富士山側の山越えルートを通るのだが、途中にあるサファリパークに向かう車の渋滞にハマってしまった。
折しも、ゴールデンウイーク。サファリパークはまだ開門していないのか、車はかなり手前から渋滞し動こうとしない。
時間的にはまだ余裕はあったので、Uターンし別のわき道からアプローチを試みた。しかし、やはりそちらも同じ状況で、結局進まない。仕方なく裾野に下り東名高速に乗ることにした。時間的には何とか間に合いそうだった。
富士インターで東名を下り、富士宮道路に入る。ところが、あまり使い慣れないルートで、時間的にも厳しかったことが災いしたか、下りるべき出口をふと通り越してしまった。
「まずい」と思うが、車の速い流れの中で、車を止める所も脇道に出る出口もなく前に進むしかない。
電話が鳴る。恐らく部員からだろう。
とにかく車を寄せて止めたいと思い、ふと、左に現れた道に車を寄せた。
ところが、なんとそこは第二東名への入口だった。止められもしないし、戻れもしない。「そんなばかな」と人は思うかもしれないし自分でも唖然としたが、もうどうしようもない。
愚かにも第二東名を来た方向へ向かって戻り、駿河湾沼津SAのスマートインターを使って折り返し、再び富士に向かい、やっとのことで試合会場に到着した。
当然試合は始まっていて、当然のごとく部員の不評を買った。
焦るとろくなことはない、その典型的な例だろう。
「焦ってもろくなことはない、焦ったところで何一つプラスにつながらない。冷静に考えれば焦ることの無意味さは分かるだろう」などと試合を前にした部員や、試験を前にした受験生に常々言っているくせに、いざ自分が焦るとこの始末である。
客観的に「動揺の無意味」を口にできるのは、自分が当事者でないからだけかもしれない。人間は焦り、動揺する動物であり、自分の心をコントロールするのは理屈で考えるよりも難しい。
逆に言えば、それは戦法になる。テニスの試合でも「焦り」は重要な勝負のポイントで、どんな強い選手でも接戦に持ち込めば動揺する。
そういう状況になれば、自分でポイントを取りに行くよりも、相手のミスを誘う方が有効になる。ミスはまた焦りを生んでミスを誘う。そうなると勝ちは手にしたも同然である。
その心の強さの、どちらがまさっているかが勝敗の鍵であって、必ずしも技術の差ではないことが勝負の面白さだと言っていいかもしれない。
高校生はそういうことが顕著だが、一流のアスリートでもそういうことはあるだろう。プロのスポーツ競技でも「流れ」をつかむかつかまれるかは勝負の大きな鍵であるし、浅田真央がトリプルアクセルをうまく跳べなくなってしまったのも、期待に応えなければならないと思う誠実さだったように思う。
ポ-カーなどのカードゲームでも、チェスや将棋などのボードゲームの世界でも、いわゆる「技量」には、頭の働きと同時に相手の心理を読むということが当然含まれている。
人間同士がやる、それがおもしろさなのではないか、と思う。
だから、最近、将棋や囲碁で、ソフトやAIと人間の対決ということが話題になったりしているが、それには違和感がある。
「土俵が違う」ことをやっている、と。
その状況を自分の経験と知見で判断しようとする人間と、あらゆるデータをインプットされ続けていくAIでは、失礼かもしれないが、AIがやがて勝利することは目に見えている。
第一に焦りや迷いを持つ人間と、心を持たないAIの対戦には、勝負の駆け引きのおもしろさはない。人間はミスをするが、AIはミスをしない。そこに、心身一体である人間同士の本来のゲームの面白さはない。
ただ、NHKのドキュメンタリー番組が書籍化されたものを読んだが、例えばチェスの世界ではソフト、人工知能に学ぶというのは、もうかなり前から行われているらしい。
そこに羽生善治の言葉があった。
当初「棋譜を見れば、コンピューターが指しているのか、人が指しているのか見ていればわかる。将棋の美しさでいうと、人間に分がある」
そう言っていた彼が、AI のすさまじい進化、直感力や創造性といった「人間らしさ」を持ちつつあることを体感し、「無視できない現実」としてこれとの向き合い方を考えようとする姿勢が書かれていた。
AI に学ぶことで将棋の新たな「手」、新たな世界が開拓されるのかもしれない。
AI世代の棋士たちもどんどん出て来るだろう。藤井聡太はその代表、先駆者であるかもしれない。
だから、「AIに 学ぶ」という新しい流れは必ずしも否定すべきことではない。
でも、そこに何か違和感があり、その違和感を大事にすることは必要なのではないかと思う。
「天使か悪魔か」とその本は書いていたが、天使にするのも悪魔にするのも人間であり、AIに人間が試されていることになる。
少なくともAIに美空ひばりをよみがえらせたり、AIに俳句を作らせたりするのは、おかしくないか?
どこまでできるかということは、人間を「進歩」に導いてきた好奇心だろうが、できてもやらないという判断があってもいい。どんな考え方も技術も、それを使うべきなのか否かの判断こそ「人間」の役割なのだと思う。
感情や感覚や身体を持たないAIと人間とは異質なものである。
だから逆に言えば、焦って間違うAIを作ることができたら、それこそ怖いと思ったりしてみるのである。
■土竜のひとりごと:第203話
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