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第69話:暇つぶし

子供のころ、暇があるとよく猫をつかまえて、そのノミをつぶして過ごした。猫をひっくり返して毛をかき分けると何匹ものノミがススーッと逃げて行くのだが、それをサッと左手の親指の腹で押え、逃げないようにたぐりながら両手の親指の爪の中に入れてパチンと潰す。

知らない人は気味が悪いと思われるかもしれないが、本当にパチンパチンという音がして、その音が何とも快かった。梱包のクッション材として使われるプチプチを潰す時の感覚に似ている。

しかし、ノミを潰しているうちに、つい猫のことを忘れ、猫の腹をむやみに力を入れてつまんでいたりするから、猫は嫌がり、有り難い顔もせず、そそくさと逃げ出すことになる。
立ち去る猫を見ながら何とも惜しい気持ちがしたりするのは全く妙な具合ではあるが、ささやかながらに何か時を忘れる充実感があったのであった。


そんな楽しみも久く忘れかけていたが、子どもが小さい時分、息子という格好の標的を得て、再びささやかなあの快感が胸に甦って来た。
少々汚い話で恐縮なのだが、それは息子の耳クソ・鼻クソを取ることなのであって、これが猫のノミを取ることに劣らず僕を夢中にさせる魅力を持っていた。

鼻クソなんて取るの?と思われる方もおられよう。自分で鼻に指を突っ込んで取り除くということは案外に高等技術で、赤ン坊には出来ないことを子供を持って初めて知ったのだが、ともかく、それで綿棒やピンセットを使ってそれを掘り出してやるのである。

誰だって鼻の穴にピンセットなんか突っ込まれるのは気持ちの良いことではなく、息子も嫌がり逃げ回るのだが、そういう息子を押さえ付けて鼻クソを取るのは、これがなかなかの快感だった。

耳はさほど嫌がらないが、奥のほうにあるやつを取るときなどは、つい夢中になり、耳を引っ張り回してはガリガリやるから、時々、血が出て来てしまったりなんかもする。

鼻クソ・耳クソの別なく大きな収穫かあった時などは、嬉しくてたまらず、思わずカミさんを呼び付けてその収穫物を見せ、誇らしげに自慢したくもなる。自分もそれをしばらくはティシュの上に置いて感動に浸りながら、しげしげとこれを眺めてみたりしてしまうのである。

まさしく「忘我の時」と言うにふさわしい一瞬であった。

パスカルは「人生は暇つぶしだ」と言ったとかいうが、なるほど僕らは、人生という膨大な時間をかように無駄なことに熱中して、その「暇つぶし」をしているのかもしれない。

石を拾って集めてみたり、
トイレの研究に一生を費やしたり、
音楽をしたり、
恋をしたり、
日本中の御朱印を集めてみたり、
空飛ぶ車とか宇宙エレベーターとかを作ったり、
そう、子供の頃は魚取りに行ったり、
秘密基地を作ったり、
焚き火をして芋を焼いたり・・。

パスカルが言った本当の意味は知らない。
人がウサギ狩りをするのはウサギが欲しいのではなく、狩りをすることで退屈から逃れたいのだと言ったそうであり、だから人生が「退屈しのぎ」であり「意味がない」ということらしい?。

ただ、僕はその「暇つぶし」という語の意味を、パスカルとは無縁に、プラスで考えてみてもいいのではないかと思ったりしてみる。
僕らはたぶん、生から死に向かって、今日から明日に、過去から将来に向かって一直線に自分の人生を想像しながら生かされている。
あるいは、社会の力とかお金とかいう「意味」に知らないうちにがんじがらめに縛られている。
そういう自分を無意識のまま認識してしまっている。

もしそうだとしたら、求められる行為や意味のためではない「意味のない」空白があることは大事かもしれない。
そういう意味で「人生に意味がない」と考えてみてもいいかもしれない。

ウクライナでガザで、世界各地で戦いが起こり、日本企業の不正が続々と明るみに出、中央では政治家が裏金を作り、その責任を隠蔽する。
それらのどこにも「生きる意味」はないのであって、本当の目的が忘れられたところに、ウサギ狩りみたいな手段が目的化されて王様のように振る舞っていると言ってもいいかもしれない。

誰も、人を殺したいわけでも、不正を働きたいわけでもない。
人生が「暇つぶし」であるなら、「暇つぶし」に人間を殺したりする人などいないに違いない。

みんな、たぶん「ひとりひとり」であることに帰りたい。

だから、
遊ぶことが大事なのだ。
怠けることが大事なのだ。
と僕はカミさんに切に訴えてみるのだが、「あなたのはそういうのと違う」
と、すげなく言われてしまうのであって、それで僕は今日もまた「がんじがらめ」になってしまうのである。

猫と散歩して「暇つぶし」するしかない。

(土竜のひとりごと:第69話)

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