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第60話:愛と恋と

古典では恋しい男女が互いを思い合うと、肉体を離れた魂同士が夢の中で会えると考えられていた。(もしよろしければ59話を見てください)

そのお互いの魂が夢の中で通い合うルートを「夢の通ひ路」とか「夢のかけ橋と呼ぶのであるが、天空の星の輝きの中に虹のような橋がかかり、その上を恋しい人が向こうからやって来るなどという想像は、確かにしてみるだけでも楽しいものではある。

小野小町に「いとせめて恋しき時はむば玉の夜の衣をかへしてぞきる」という歌があり、「夜の衣を返す」(裏返して着る)と恋しい人に夢で会えるという俗信があったそうなので、夢で恋人に会いたい人はやってみると良いかもしれない。


僕は思うのだが、恋における最も大切な要件は互いの距離であろう。結婚した夫婦の間にある感情を既に恋とは呼ばないように、この夢の話も互いの男女に、ある微妙な距離がなければ成り立たない。

万葉仮名で恋は孤悲《こひ》と書かれる例があるが、孤独悲しむであり、そうすると恋とは一人で悲しむことだということになる。
好き合う男女が会えずに一人でいるとき、互いがその互いを思い合って悲しむことが恋だと古代人が考えていたのである。古典における恋の歌はほぼ例外なく悲歌であることがそれを証明している。

現代でも同じであろうと思ってみたりもするが、恋する二人にとってその状況は非常に辛いものであるにしろ、その距離ゆえに、お互いがお互いを引き合う力はまた非常に強いものになる。
恋は盲目アバタもエクボなどという言葉もそうした引力が生み出す正しい誤りに違いない。恋が強く激しい、それが所以なのである。


くだらぬ話になるが、教員になって2年目の夏。ある女子の卒業生から葉書が届いた。エラクあっさりした文面で、さっと目を通すと、万葉の恋の歌が一首書いてあり、その後に一言だけ「私のことをお忘れでしょうか」とある。万葉の歌もよく知られているものだったし、一年間授業だけでしか接していなかったが、その女子生徒の名前も顔もはっきり覚えていた。

しかし、何故こんな葉書を送って来たのか、その意図が全く分からない。

明らかに歌は恋歌であったので、「ひょっとしたらこれはラブレターかもしれない。キケンだ」と、当時僕も20代前半の若者であったので、どぎまぎしたりなんかして、どうしようなどとうろたえてみたりしたのである。

「返事を書かねば」と普段は全く筆無精である所の僕もこれに対しては思ったのだが、何と書けば良いか皆目見当がつかない。それで三日三晩悩み、和歌に対しては返歌を贈るべきだろうと思い立ち、それから二日二晩考えて、ようやく

二度と得ぬ輝きに似て海あれば夏このことをいかで忘れん

という歌を作り、その歌だけを書いて投函した。歌は無論下手なもの違いないが、「再び見ることができないような輝きで眼前に海が広がっている。この夏、この海の輝きを僕はどうして忘れられようか」くらいの意味になるつもりである。

でも、なぜそれが彼女の葉書への返歌になるんだ?と疑問に思う方もいらっしゃるだろう。
実はこの歌の中には、その卒業生の名前が隠されている。お分かりいただけるだろうか。

彼女の名前は奈都子(なつこ)と言い、そうすると下の句の「夏このことをいかで忘れん」は「奈都子のことをいかで忘れん」となり、私のことをお忘れでしょうかという彼女の問いに対して、
奈都子、君のことをどうして忘れるだろうか。いや忘れはしないよ
と見事に答えていることになる。

ちょっとキケン!な内容なので、是非カミさんには内緒にしておいて欲しいのだが、内心なかなか気の効いた返事ができたと、成り行きを楽しみにしていたのであった。

察しの良い読者の方々には既に結末はお分かりいただけるだろうが、こんなに心をときめかせたにもかかわらず、以来彼女からは何の音沙汰もなかった。僕らには恋を成立させる「距離」は確かに存在していたものの、その前提となる恋心が初めからなかったのだろうと想像する。

ドキドキしてとんだ損をしたと、時々情けなく思い出したりもする次第なのである。

悔し紛れに恋人達にひとつ忠告をしておくが、恋を成就させて結婚に至ると、良くも悪しくも二人を結び付けていた距離は物理的に消滅し、当然それまで二人を引き合わせていた力は、至極弱くなる。

そこからはまた別の新たな淡々とした日常が始まるのであり、二人が幸せになるためには、新たに二人で二人の何かを創っていく必要が生まれる。

それを多分、と呼ぶのだと思うが、それはがある意味ではただ感じるものであったのとは質が違い、それなりの努力を伴わなければならない。結婚に孤悲のような自然に湧き起こる切なく激しいものだけを求めようとしても、それは誤りだろう。

距離の消滅はお互いの相手に対する未知の魅惑的な部分も無くすのであり、かつての夢の中の王子様が、すぐ隣でイビキをかきながら寝たりもしている。だからどうだという訳でもない。

「恋」はアバタをエクボとして許し、
「愛」はアバタをアバタとして許すのである。

(土竜のひとりごと:第60話)

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