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第208話:笑いについて

高3の担任の先生は熊本出身の人だったが、受験で東京に行く時、電車から富士山を見ると落ちるというジンクスがあったので必死で見ないようにしたという話をしてくれた。

今、そんなジンクスが生きているかは知らない。僕が高3であり、さらにその先生が高3だったわけだから新幹線など走っていない頃のことである。九州の人にとって富士山は遠い遠い存在であり、それゆえに神秘的な存在であったことがそうしたジンクスを生む背景にはあったのだろう。

他郷の人に富士山が近くにあっていいねと言われるが、確かに見る場所、見る時によって様々な姿を見せる富士は魅力ではあるが、それでも家の窓を開ければ富士山があるという環境にあっては、富士山はすっかり日常化して人が羨ましがるほどの魅力や神秘を感じる対象ではない。

近くにいるとその魅力は分からない。
例えばそれは、カミさんがもはや魅力や神秘でないのと同じである。

同様に、友人に「お前は女子高生と一緒にいられていいなあ」と言われることがあるが、これも同じ理屈で彼女らの存在が僕を魅了したりはしない。
JKというブランドを世間の人がどう認知しているか知らないが、学校の中には常に400人くらいがごちゃごちゃいるわけだし、年齢差から言えば孫であってもおかしくなく、互いにもはや「圏外」であることが共有されているから何の波風も起こらない。
戯れに「俺と結婚しよう」と暴言を吐いたとしても、このジジイ何を言うかと不愉快な顔でもされるならまだしも、「OKで~す」と軽くスルーされ、かえって「圏外」であることが寂しく意識される。

セクハラにもならない。

昨今はハラスメントばやりで、セクハラ、パワハラ、モラハラとか無限にあるらしく、僕らは常にこれに該当しないようにハラハラしていなければならなくなった。

部活の女子生徒に「お前たちはバカだねえ」と言うと、「今のパワハラだよね」とお互い顔を見合わせ、テニスボールをぶつけると「あっ、体罰だ。アンケートに書いちゃお」と言われる。
むろん彼女らはジジイをからかって遊んでいるにすぎない。そういう意味では「圏外」というのは、彼女らにとって僕が「圏内」であることによって成立していることになる。

これが「圏内」でない場合には通じない。例えば「圏内」にいない女子高生に「結婚しよう」と言ったら、まず間違いなく不審者として捕まるだろう。

ある時、部活の女子生徒が廊下を歩いていたので、ふざけて肩でタックルを食らわせたら、「何、この人」みたいな茫然とした顔をされたのだが、どうしたことかとよく見ると、似てはいたがその生徒ではなかった。
慌てて人違いであった事情を話し平謝りに謝って許してもらえたが、突然、知らないジジイがタックルを仕掛けてきたら、それは犯罪行為であるに違いない。

一方で、ハラスメントヒステリーも進行している。

いつぞや綾小路きみまろが自らの苦境をテレビで語っていた。コロナで公演数が激減したそうだが、それよりも中高年をいじり倒して笑いを取る、その芸風が容姿・容貌をネタにして傷つけるものだという批判を多く浴びるようになり、その芸風を続けていいものかどうかを悩んでいるという話だった。

皆さんはどう思われるだろう?

木村覚の『笑いの哲学』の中にそんな話題に触れた記述があった(以下は要約)。

英哲学者ホップスは「他人の欠陥を笑うのは愚であり、小心者の証」とした。その考え方は当然、差別や偏見を正す公正さの重視の発想(ポリティカル・コレクトネス)につながり、それが芸人の笑いの否定も導く。
しかし、筆者は「個人を直接笑うのではなく、また優でも劣でも無縁に社会において「ぎこちない」と感じられるものをタイプとして笑うものだ」という仏哲学者ベルクソンの考え方を引用しながら、その笑いを擁護した。

なるほどそうだろうと思う。
世の男たちが妻の愚痴をネタに盛り上がるのもそういう「型」の在り方を共有しているところに成り立っている笑いに違いない。

綾小路きみまろの笑いも特定の個人への批判ではなく、中高年のブヨブヨや無節操という「型」を笑いにしていると考えられる。
他の芸人も作り上げた自分の「キャラ」を笑いにしているのだろう。

そういう笑いへの批判は、かえって一律な見方に囚われた「ぎこちない」振る舞いであって、笑いを笑いとして受け入れる柔軟さを欠いていると思われる。
あるいは彼の笑いの「理解の圏外」にいるために、そのネタを自分の「圏外」に置いておけずに批判の矛先を向ける。笑いは、その「理解の圏内」にいなければ成り立たない。

悪質、低俗な笑いは論外だが、すべてを組織のシステムの枠に入れてヒステリックに否定する人は、笑いに否定された人だと言わなければならない。
ハラスメントも無論問題だが、「理解」の微妙な往来、バランス感覚を欠いた攻撃も現代の問題点であろうと思うのである。


例えば、マラソン大会の練習をしていた生徒が
「先生も走れば」と言うので、
「走ったら死んじゃう」と言うと、
「タバコやめれば」と言う。
「タバコをやめたら今日を生きられない」と言い、
「死んだらお線香でもあげにきて」と言うと、
「じゃ、お線香の代わりに煙草に火をつけて供えてあげます」と言う。
内容的には甚だ危険な話だが、このやり取りは決してブラックではない。

言葉は関係性の上にあって初めて理解される。それが「圏内」にあるということである。相手が傷つかない笑いは柔軟な営みであると言える。
ブラックか否かのギリギリの境界を「遊ぶ」ところに笑いは成立する。


3月、卒業したての女子生徒が三人で学校に遊びに来た。
「卒業だね。JKブランドを捨てるのは惜しい?」と聞いてみた。
「なんとなく寂しいかも」と言い、
「でもこれからはJDで頑張りまーす」と言った。
でも、三人のうち一人は
「私は浪人だからJDじゃないんです」と言いながら、
「でも浪人だからJRで頑張りまーす」と言っていた。
埒もない。
JR=女子浪人というブランドが立ち上がることはないと思うが、こうした受け答えは、ちゃんと「遊べる」成長した姿だと思った。

これも僕の素晴らしい指導の賜物であるに違いない。


■土竜のひとりごと:第208話

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