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第41話:友人からの手紙

大学の同期に妙な奴がいて、彼は高校卒業後、就職し、5年間勤めた後に大学に入って来た。そこで僕は彼と知り合ったのだが、いつも黒いジーパンに黒のTシャツを着、不精髭にボサボサの頭をし、顔立ちも独特の風貌をしていた。

アフリカに行くのが夢だと学生時代は言い、国文科にいながらスワヒリ語と英語を勉強していた。仕送りはゼロ。泊まり込みの新聞配達のアルバイトで生活の資を得ていた。
大学卒業後もそのアルバイトで2年ほど食いつなぎ、飢餓絶滅の国際的規模のボランティア団体に所属してあちこち駆けずり回っていた。
時として異様とも思われる大声で笑い、女の子には妙に優しい、「変人のにおい」がする奴だった。

もう何十年も前になるが、彼からもらった手紙を今日は紹介してみたい。

手紙どうもありがとう。

正月も元日は深夜までオフィイスで仕事をした。
元日の夜は風が強く、ビル街も寒さが角張っている。

仕事を手伝ってくれる人もなく、一人で原稿を書き、アメリカに送る。
書類整理、スケジュール組み、 帳簿確認、電話の応対、統計資料、発行誌、封筒詰め、宛名書き・・

茫々とした漠たる感情。
これで死ねるか!といういつもの気持ち。
そう思うそばから、他に何がお前に出来るのか!?と、自分の中のもう一人の自分が醒めた笑い声を立てている。
職がないことの恐ろしさ、定収入がないことの怖さ。
自分が自分で ありたいと思うこの気持ち。
何がなんでも何かにしがみついていなければならない。
焦り、迷い、憤り…。
しかし自分にはもうこれしかない。

土屋、生きるのがこんなにも難しい。
飢えと取り組みながら自分が飢えてしまいそうだ。
わけがわからぬ。
エゴも欲もまだまだ俺に はある。
自分みたいな人間がもっと増えなければ日本もダメだ!なんてわめきながら酒に飲まれている。
今夜の酒はうまいなどと、飲めもしないのに知ったようなことを抜かす。

全てが中途半端。
文学も政治も恋愛も。
どれも一つとして自分のも のになってはいない。
選ぶことの怖さから逃げている自分。
結局、何もものにはなりはしない自分が残っているだけだ。

 でも、これでよし!と言い切って今年は生きて行きたい。

これでよし!

 1月3日夜  S

多分酒でも飲みながら書いたのだろう。
支離滅裂と思われたら赦していただきたい。

彼はわずかな収入で食いつなぎながら、それでもニューヨークへモスクワへと会議に出掛ける身ともなったが、そのころから音信が途絶えた。

が、僕が45歳ころ(だから彼は50歳くらいだったろう)、突然、友人を経由して彼の訃報が舞い込んだ。
東北にいた。葬儀に駆けつけたが、彼は養護学校(特別支援学校)に勤務し、障害を持った子どもを抱える未亡人と結婚していた。
しかし、癌を患い亡くなったということだった。
奥さんは「いい人だった。本当に私たちはあの人に救われていた。」と言って涙を流されていた。

彼の生き方は、何かを求めようとして悩み、何かをつかもうとしては挫折する、そんな生き方だったのかもしれない。
あるいは、 個人が個人としてあることと、個人が正しく市民としてあろうとすることの狭間に彼はいたとも言えるかもしれない。

人が人として持つ硬質感とは、何だろうか?
僕はこの5歳年上の既にオジサンであるところの同級生の、こうした幾通かの手紙を、時として羨ましく、また何故かひどく懐かしいものとして読み返すことがしばしばある。


蛇足だが、彼は常々、こう言っていた。

飢餓は人災であり、その解決を政治や国際社会は、結局、成し得ない。
有効な解決策は草の根のつながりを創り出すことだ。

イデオロギーや国家、民族や言語、文化、過去の歴史などといった枠を超えて人と人がつながることが、遠回りのようでありながら、一番近道であるという「現場」の声である。
でもそれは、必ずしも、激しく立ち上がれということでもない。そうできる人も少ないに違いない。
ひとりひとりが、置かれた立場や枠組みに囚われずに、人を、ひとりの人として見る視点を得ることが大切なのだろうと思う。

(土竜のひとりごと:第41話)

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