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第75話:うまい話

独身の頃、自分で言うのも何だが僕はよくモテた。

と言ってもそれは僕の容姿や性格が女性に歓迎されたということを意味するわけではない。見合いの話が結構あって、要するに職場のオジサンたちによくモテたということになる。
それも、僕自身のやはり性格や容姿より、僕が三男坊で、どこに行こうが婿に入ろうが一向に構わないという僕の条件が僕をモテさせたことになる。

時には先輩に「ちょとこっちへ」と呼ばれて「ウチの親戚にこういう子がいるがどうか」と言われたり、飲み会のついでに「卒業生で保母をしている子に良い子がいるんだが」としつこく誘われたり、校長に呼ばれ、何かと思って緊張して校長室に入ったら、「実は私はめったにこういうことは勧めないんだが、こういう子がいて保護者からの話で」などということで、そういう類いの話はたくさんあったのであった。

長男は家に入って家を継がなければならないから若い女性から敬遠されがちで、女性しかいない家では婿を欲しがった、そんな時代だったのである。


既にこの頃カミさんと付き合っていた僕はカミさんとの愛を守るために、どんな誘いも全て丁重にお断り申し上げたのだが、中に一つだけ心動いた話があった。

これも同僚の勧めで、その家はみかん農家。家の裏戸を開けて目に入る山が全てその家のもので、収入は相当のもの。亭主の収入など全く当てにしていない。
ところが生まれたのが娘ばかりで婿が欲しい。
「とにかく遊んでいると体裁が悪いから、どこへでもちょっと勤めててくれりゃいいって言っている。娘は4人で、一番下のは今、高校生だからちょっと問題はあるけど、どの娘でも良いから来て欲しいって言うんだけど」と言う。
随分乱暴な話もあったもんだが、いわゆる「ギャクタマ」というやつで、話としては悪くない。

たまにはこんな「うまい話」も転がっていて僕に回って来ることもあるんだと感動し、心は動かないではなかったが、僕はカミさんとの愛を守るために、これもまた同じく丁重にお断りしたのであった。


かほどまでに堅く守った愛の結果であるカミさんとの結婚生活は、これがそこそこの貧乏生活である。食うには困らない。安月給で妻と子と僕の3人がその日その日をのそのを暮らしている。
取り立てて何が不足ということもないが、政治家が不正をして私腹を肥やしているニュースを見れば腹は立つし、同僚がどんどん車を買い替えたりすると取り残されたような気分にもなる。

若い頃、大学の仲間と飲むことがあってカミさんも同席していたのだが、時が経つうちに話が結婚のことに及んで、ある奴が「全く結婚すると付き合いが悪くなって困るぜ。そいつ結婚して小遣い幾らだと思う?2万円だって。かわいそうに」なんて笑いながら言っていた。

僕は「ほー」と思って聞いていたのだが、実はそのころ僕の小遣いは1万円だった。


貧乏性も固く根を張っていて、浜松に行って鰻を食べようと思うのだが、鰻に手が出ず、ついつい何かの定食になる。いつぞやも伊勢に旅行し、伊勢に行ったら豪華に伊勢エビを食べて盛大にやろうとカミさんと固く決意して出掛けたのだが、これもいざその場になってみると、簡単に貝焼きの盛り合わせにしようということになり、結局伊勢エビを食べずに帰って来てしまった。
カミさんはたくさん買い物をしたら二千円分のサ-ビス券が付いてきたと、その使い道に異常に心をウキウキさせたりなどしている。

みかん山のギャクタマの乗れば良かったと思うことは一応ないが、それでもどこかにうまい話は落ちていないものかと、宝くじも毎回買うし、一億円でも落ちていないかとキョロキョロと下を見ながら歩いたりもする。

小さくてもいいから自分の家を持ち、リホームしたり、庭いじりをしたりしてみたいというのが僕のささやかな夢であったが、その夢は永久にかないそうにない。


恐らくこれが庶民なんだなあと、そんなことをつくづく思う。お前と一緒にされたくないと思う人もいるかもしれないが、豊かな日本と言われる中流サラリーマンの実態ではないかと僕は勝手に思う。

しかし、正しきロマンを追及するためにも、金は不要である。美しい花がトゲを持っているように、うまい話にも何かしらの落とし穴が伴わないとも限らない。堅実に庶民としての道を歩むことが最も人間らしい在り方のかもしれないではないか。
改めて言ってみるが金は不要である。
という、実は「まったくの嘘」を自分に言い聞かせている。


蛇足ながら高校時代に先生がしてくれたこんな話を紹介しておきたい。
彼の教え子が東京に出てある医者の家の息子の家庭教師についたそうなのだが、家に呼ばれ給金についての話をした時、「君はいくら欲しい」と聞かれたので、週2回、月8回のアルバイトでちょっと高いかなとは思ったが、まあ「ものは試し」ということで片手の指を全部開いて5万円という金額を示した。

すると医者の表情が曇り、「お前それは取り過ぎだ。指を二本引っ込めろ」と言うので、慌てて「それで結構です」と答えて交渉を終えた。
3万円なら相場だし、仕方ないかと思ってそれでも一生懸命教えていたが、その月末、渡されたアルバイト代の封筒を開けてみると3万円どころか一万円札が束になって入っていた。
そこでドキドキしながら数えてみると、何と30万円入っていたそうなのである。

まさに桁違いの「うまい話」である。
その学生は親に仕送りをしたということであった。

(土竜のひとりごと:第75話)

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