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第20話:昭和が終わった

昔、クラス通信に書いていたものを読み返していたらこんな記事があった。

「昭和が静かに終わった」と新聞記事に書かれていた。

昭和が終わったことについてそれほど取り立てた感慨がわき起こったわけではなかったが、元号が「平成」と改められたことを耳にしたとき何か自分の足元が動いたような気も確かにした。

昭和という時代は、おおざっぱにいえば、日本が戦争に突き進み、そして負け、戦後の荒廃の中から立ち直り、経済大国として世界のトップにのし上がった、そういう時代であった。
混乱から繁栄へ、まさに激動の60余年だったと言うことができるだろう。

時代の全体像など捉え切れるわけはないが、そんな高度経済成長、近代化の一方で様々な矛盾を抱えながら進行して来たということについて記憶にとどめておかなくてはいけない。

天皇制や天皇の戦争責任に関する問題、日の丸、君が代の問題、戦争を引き起こしそれを増長させていった日本の、あるいは権力者の、ナショナリズムの捉え方、侵略の事実、政治家の発言や教科書検定での戦争責任回避の姿勢に対するアジア諸国の反応、日米安保条約の問題、朝鮮、ベトナム戦争を踏み台にした繁栄、防衛費GNP1%突破の事実、また経済的にのし上がった日本人の海外における金にものを言わせた横暴、消費税の導入とその採決のされ方、老齢化社会、オゾン層破壊や森林の伐採などに代表される地球的規模の自然破壊の問題、政治家と企業の癒着、あるいはチェルノブイリを経験しながらもなお作られ続ける原子力発電所の問題、産業廃棄物、放射性廃棄物の処理の問題など、挙げてゆけばきりがない。

こうした問題を平成に生きる君たちはそのまま引き継いで行くことになる。あと数年経てば、今は自分には関係無いと思っているこれらの問題が君たち自身の生活に大きくのしかかって来るに違いない。また、これらの問題について諸君が自分の判断を求められるときがやがてやって来るだろう。

そのときに「自分には関係ない」とか「わからない」というのでは悲しい。社会や世界にアンテナを立て、そうした問題に客観的な判断が出来るように、常にものを考え、自分の「ことば」を持とう。考えることが人間の尊厳なのだから。

昭和が終わった。

とりあえず今この時を確かに記憶しておこう。何でも良い。例えばテレビが天皇崩御一色に染まったことでもよい、水戸黄門のナショナルのCMが自粛されていたことでもいいし、平成の初日は朝から穏やかに雨が降っていたことでもいい。
時代の節目というものがどのようにして諸君の目の前に現れたのか、どのようなことを諸君は感じたのか、しっかり見届けておこう。

恐らく君たちは平成が終わるその瞬間も体験することになるだろうし、そうでなくとも12年後には21世紀が幕を開ける。そういう時代の節目を君たちは生きているのであって、君たちが体験したことは、いま君たちが歴史を勉強しているように、君たちの子供や孫の時代には教科書に載り、様々な問題をはらんだ日本史として勉強されていくに違いない。

君たちは歴史の動き、流れを自分の目で見、自分の肌で感じた貴重な生き証人なのだと言える。だから、今の一瞬一瞬を、感じ、考え、記憶にとどめ、そして語り継いでゆこう。それは君たち自身がよりよい人生を生きるために必要なことであり、またそれは君たち一人一人が、実は歴史を創っていることの限りなく確実な証明であるに違いない。


まったくの無意味な蛇足だが、あと30分で昭和が終わるというとき、僕はカミさんに聞いてみた。
「残された30分、僕らは何をすれば良いだろう」と。
カミさんは即座に「私は寝るわ」と言って、グースカと眠ってしまった。
僕はウイスキーを取り出してそれをチビチビなめながら、彼女は健康という二文字を子供に語り継ぐに違いない、と考えた。

そして、僕の昭和の最後の日は終わった。

なんだか読み返してみると歯の浮くような恥ずかしさも感じる文章だが、ここに留めてみたい。
昭和の課題は解決されるどころか、平成を経て令和に至り、ますます複雑多岐、深刻化していると、読み返してみて思った。混迷する時代の中では、ますます「自分のことば」を持ち、追従や迎合を自分に戒める必要があるに違いない。

(土竜のひとりごと:第20話)




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