見出し画像

自分への信頼が崩壊する日

最近、同じ職場の同僚を呼ぼうとしてその名が出てこないことが多くなった。同僚にも親しい人もいれば、それほど親しくない人もいるのだが、同じ教科で、いつも話をしている人であるにもかかわらず、教材の打ち合わせやらテストの採点基準やら、ふっと相談しようとして声をかけようとして、よく知っているはずのその人の名前がどうしても浮かんでこない。その人を目の前にして、呼びかけようとして呼べないのである。「うわー、この人誰だっけ」と必死で記憶の糸を手繰っている自分が、まったくもって嘆かわしい次第である。


このあいだも部活の試合後のミーティングで、部長に話しかけようとしてその名を見失い、「お前は誰だったか?」と聞いて部長の信頼を失った。そんな事情であるので、疎遠な人はどんどん忘れていく。政治上の人物も女優もアイドルも教え子の名前も。

このあいだは夏休みを過ぎたら、自分の担任しているクラスの生徒の名前が、その生徒を目の前にして出てこなかったことにもショックを覚えた。

かつてはそんなことが自分に起こるわけがないと思っていたのだが、ここのところは、俺の記憶はどうなっているのか?と、脳がザルのようになって、まさにスカスカになっているのではないかと恐怖を感じるこのごろなのである。

当然ながらミスも多い。

ことにそれは職場が学校であるという性質上、テストのときに露見する。テストというのは生徒も大変だが、教員も問題作成と採点、それと並行して授業、補講の準備、土日は部活の公式戦・・、なので教員も大変・・。忙しいとミスが起こる。というのは自分のミスが忙しいからだと思いたい自分の願望に過ぎないのだが、とにかくミスが多く、自分が嫌になっている。

問題番号が重複していたり、問題はあるのに解答欄がなかったり、選択肢から選べと指定しているのに選択肢がなかったり・・。
満点を100点に作ったつもりだったのに、採点を終わって点を数え始めたら、100点を超える生徒がいる。おかしいと思って模範解答の配点で確認すると、なんと118点あった。模範解答を作り、その上で配点の調整も慎重にしているのにである。

それはまだいい。

採点した答案を返却すると、「ここ採点してありません」と答案を持ってくる生徒が何人もいる。

でも、それでもまだいい。かもしれない。

いつだったか、

ある問題の模範解答を問題用紙に刷り込んでテストをしてしまったことがあった。

なぜそんなことになったかと言うと、論述問題の字数制限を決めるために、問題を作りながら、自分で模範解答も一緒にその問題の脇に打ち込みながら考えるのである。そう、Wordの文字カウントを使いながら。しかし、それを削除し忘れ、そのまま印刷してテストしてしまったのである。テスト中、生徒に「これは何ですか?」と質問されて、初めて気付き、青くなった次第である。

これほどショックなことはなかった。

解答が問題の横に記述されているテスト!

僕も驚いたが、生徒もさぞ驚いたことだろう。


それを話すと、同僚は「俺は漢字の書き取りの問題で、

“次のカタカナを平仮名に改めよ!”

という問題を出してしまった!ことがある」と慰めてくれた。が、それが果たして慰めになるかというと、これがまた微妙な問題である。
いい加減にやっているわけではない。いや真剣に、慎重にやっているのだ。しかし、それだけにそういう自分に恐怖を感じずにはいられない。何とも打ちひしがれることが多いこのごろなのである。


つい先日、そういう自分に追い打ちをかける、いやとどめをさすと言っていい出来事があった。


夜の八時半、仕事を終えて職場から帰ろうとして下駄箱までやってきたのであるが、その時、なぜか自分の下駄箱の扉に向かって、車のキーのリモコンのボタンを一生懸命に押していた自分がいたのであった。

扉は勿論、開くはずもなかった。

自分に対する信頼が崩壊していく・・、ひたすら何かが自分の中から滑り落ちていっているといった実感。この恐怖と寂しさと戦っているこのごろである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?