見出し画像

第44話:教員住宅のノンベーたち

教員というのは儲からない商売で、平日は学校で残業しても家で徹夜をしても1円の手当もつかない。土曜日や日曜日に部活動で生徒に付き合うと、今は2300円支給されるが、試合で丸一日10時間生徒を引率しても2300円だから、時給は230円ということになる。ちなみに定年退職して再任用となった今、給料は定年前と全く同じようにフルタイム勤務しても手取りは22万円でしかない。

土、日曜日もない。夏休みと言うが、部活動や補習で休みはなく、夏季休暇の5日は「休みを取って出勤する日」でしかない。「貧乏暇なし」の言葉をそのまま生きるしかない我々の稼業事情であって、これは公務員の使命である「奉仕」だと自分を納得させるしかない。

思わずグチが過ぎたが、金のために教員をしている訳ではないし、公務員であるから不景気になっても失業せずに済むこともまた確かである。僕のように無能な人間でも犯罪でも起こさぬ限りクビにされることもない。とりあえず「安定」しているらしい。

ただ、今は借家住まいだが、若い頃は3DK程度の職員住宅に割安で住むことができた。こいつのお陰で妻子を路頭に迷わせず、どうにか一馬力でも赤字の出ない程度の生活が送ってきたとも言える。
卒業生がトッポイ(恐らく死語だろう)車でやって来て「先生、まだ貧乏やってんのかい」などと言ってくれるのに傷付きながらも、それでも夜露だけは凌ぐことが出来たのである。

職員住宅にもピンからキリまであって最初に住んだのは全くのボロだった。住ませてもらっているのに悪口は言いたくはないがゴキブリはたくさん出没するし、白アリで床は抜けそうになっていた。面倒だから替えなかったが襖も破れて日に焼けてまっ茶色だった。

次に住んだのは、しかし、新設校のために建てられた新築の鉄筋4階建、洋式トイレやシャワーまで付いている甚だ近代的なものであって、こんなところには二度と住めないだろうと思うと寂しさも感じたが、こんなところに安くこうして住めるなら自分でいて家を建てくても良いような気にもなった。

ただ、暮らしというのは実にいろいろなことが起こるわけで、決してそこが天国というわけでもなかった。例えば、飢えた猿が山から降りて来てベランダで作っていた野菜を食ってしまったり、駐車場に無断で侵入し、住人の私費で賄っている水道でそれこそ丁寧に洗車していくオバタリアンも出現したりして、そういう諸々の異常は起きた。

それだけなら取り立てて憂いもしないが、例えば帰宅したが奥さんが出掛けてしまって玄関の鍵がなかったために3階の自分の部屋までベランダを伝ってよじ登った体育教師がいた。3階と一口で言えばたいしたことはなさそうだが、普通の人は到底そんな気にならないだけの高さはある。
落ちたらどうするのだろうという心配も一応するとして、とりあえず新聞沙汰になったとしたら迷惑だし、もし彼が登って行く姿を誰かが部屋の中で見たとしたら著しく驚きをなし、こんなところに住んでいたくないと思うに違いない。
そんなこんなの紛れもない住人自体が引き起こす許し難い異常も数々起きたのであった。

わけても迷惑なのが酒飲みで、ノンベーが多く、毎日「午前様」という人もいらっしゃった。静かに帰って来てくれれば問題はないが、時々駐車場で大声で叫んだりする。
ふらっとやって来て僕が毎日チビチビと大切に飲んでいる高級ブランデーを湯水にように飲んでしまったりもした。
朝、職員室で顔を合わせると二日酔いの死んだ目で「俺はもう酒は飲まん」と言っているくせに、勤務時間が終わると早速仲間を集めて飲みに出掛ける。毎晩のように飲み歩いているので、タクシー業界にも顔が知れ、夜中に酔いどれてタクシーに乗ると何も言わないでも、運転手さんが間違いなくこの住宅まで連れて来てくれると言う。
ノンベーにとっては便利なことだろうが、そうでない一般住人にとっては住宅の名を汚される甚だ不名誉な事態と言わねばならなかった。
風邪をひいた時に見舞いがてら食事を作りに来てくれるのはいいが、精がつくから飲めと茶わん蒸しのような卵酒の失敗作を僕のために作り、自分はウーウーと苦しんでいる病人の枕元で酒を飲んでいたりする。
一升瓶を友とし、他人の苦しみをも肴にして飲むような、限りなく愛すべきノンベー連中がそこの住人だったのである。

そう言えば階段をグルグル回っていると自分が何階にいるのか分からなくなり、他人の部屋の鍵穴に自分の部屋の鍵を突っ込んで「開かない」と悩んでいる人にも出くわした。
居間でカミさんとくつろいでいると間違って人の部屋に侵入し、気が付くと隣でキョトンとした顔で立っている人もいたりした。カミさんと二人であっけに取られていると、照れ隠しに持っていたみかんを「あげる」と置いて行き、翌日「つっちい(僕のこと)にみかん取られた」などとほざいてみたりする。愚かなことである。

普段偉そうなことを言ってはいるが、要するに教員とはそんな程度の人種なのであり、誠実で慎み深く上品な僕にとっては甚だ付き合うに困難を感じざるを得ない人間集団なのである。

(土竜のひとりごと:第44話)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?