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第151話:ドラマの喪失

何でもそうだが、いいものにはドラマがある。

漫画であれ、小説であれ、映画であれ、分かった風に言えば音楽なんかもそうかも知れない。驚きであり、感動であり、発見であり、僕らの心を揺すぶって日々の埃を振り払ってくれる。
自然なリアリティーを保ちながら、しかも思ってもみない驚きや発見が仕掛けられていて、それが微妙なバランスを保ちながら成功している。いいドラマとはそんなものである。

ただ、人間の飽くなき好奇心を満足させるためには、ドラマは驚きの連続でなければならず、感動や発見を絶えず作り出すことは非常に難しいことでもある。
例えば、「北の国から」のあの第一作シリーズは名作に値するが、二作目以降は、いやその後物語が進展していくたびに、残念な思いがした。ドラマを続けるためには、あの純粋な家族が次々と不幸を経験しなければならなかった。むしろ、そのままにしてほしかった。
スターウォーズ」もそうだったかもしれない。「ロッキー」もそうだったかもしれない。ドラマは常にドラマを用意しなければならない。良質の感動を与え続けるのは実に難しい。気取った言い方をすれば、それはドラマがドラマであることの宿命だと言えるのかもしれない。

人生はドラマだろうか? 

これはなかなかに難しい問題である。結論的に言えば、恐らく人生はドラマではないのだろう。たぶん、ドラマは一瞬を切り取ったものであり、人生は一瞬では収まらないものであるからである。

例えば、映画のワンシーンに恋人が別れて男が去っていく場面。見送る女。男のトレンチコートの背中。雪が降っているかもしれない・・痺れる光景である。
しかし、現実はそこで終わらない。エレベーターのカッコよく別れたはずが、何かの悪戯で再び扉が開いてしまったり、新幹線で「さよなら」を言い見送ったのに、いつまでも列車が発車しなかったり。
熱い恋を成就させて結婚すれば、そこから先は日常が始まる。あんなに好きだったのに、未知の魅惑に包まれていた異性はいびきをかいて寝たりもしている。

ドラマは「ハレ」、人生は「ケ」であると言えるかもしれない。
それは同じドラマでも「フーテンの寅さん」とか「釣りバカ日誌」に近い。大概はいつもどおりにいつものことが起こるのであって、たま~に、本当に稀にワクワクがある。毎日がただ凡々と過ぎていく。

ただ、だからこそ僕らの中には常にドラマを求める心があって、それが人生を支えているというのも正解かもしれない。
僕らは何かが起きないだろうかといつも思いながら暮らしていて、大雪が降って交通機関が麻痺したりするとやけにうきうきしてみたりする。誰かが転ぶと嬉しかったりする・・。ドラマを観るのはそれに近い。日常の中にあって非日常を求めるために。

子供の頃は毎日がドラマだった。若いときはいつかそのうち自分にもドラマが起こるに違いないと考えていた。ところが、中年に及ぶと、ここにはもはやドラマがなく、老年に至ってドラマを求めると「老いらくの恋」のように道を踏み外すしかない。

ドラマを失ったものをオヤジと言うと言えばとんだ失言と中傷されるかもしれないが、オヤジはその喪失の空虚が寂しくてたまらない。だから飲んだくれたり不倫に走ったりするのだろう。
たそがれ清兵衛」「海鳴り」・・藤沢周平が何故か心に染みるようになり、「シャルウイダンス」(古いか?)の主人公の気持ちが痛いほど切々と解ってみたりするのである。

「何かになりたかった」「何かでありたかった」・・そう、いつでも考えてきたし、いつになってもそう思うものかもしれない。
どんなに平穏で満たされていてもそこに安住できない。一生懸命に頑張り、たどり着いてみると、手にしたものが本当に自分が欲しかったものかどうか分からなくなってしまう。
今の自分ではない自分がいるような気がして仕方ない。いつも何かに向かっていかないと自分を見失ってしまうような気もする。
少年のときのように未知の可能性に溢れ、毎日がドラマであって欲しい。でも、違う自分とは何かと自問しても分からない。もし分かったとしても、もはやそれを実現する時間も金も力もない・・。
その寂しさがオヤジの正体かもしれない。


このあいだ顧問をしている部活の女子生徒が職員室にやって来た。コートではしょっちゅう顔を合わせるのだが、授業を教えていなければ学校の日常の中で顔を合わせることは少ない。
「お前も制服を着ていると女子高生みたいだな」と言うと、
「はあーい。JKでーす」と言う。
「何の用だ。プロポーズでもしに来たのか?」
と言ってみたところ、
「はあーい。そうでーす」
と、ものの見事にいとも軽〜くかわされた。

ドラマなど起きそうにない。


■土竜のひとりごと:第151話

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