第34話:平凡
家にはオジイチャンがいて
家にはオバアチャンがいて
ある夏の一日が暮れようとしていた
カラスが「かぁ」と鳴き
空がまっ黒くなるくらい
雀が竹やぶの上に群れていた
落ちかけて来る夕闇の中で
オバアチャンは豆をたたいていた
黙って竹やぶを見ているオジイチャンの麦藁帽子を
静かに風がなでていく
僕は縁側に腰を掛け
遊び疲れた手足を伸ばして
全く安心しきって
思いきり
その一日の終わりの風景を
両手で感じていたのだった
僕が初めて
生きているということを知ったころの
それは妙に白っぽい
懐かしい記憶なのである
「女房を選ぶときには母親を見ろ」と独身だったころの僕にアドバイスしてくれた先輩がいた。何十年後かの、それが自分の女房の姿だからと言うわけである。
当時は「そんなものか」くらいにしか思われなかったが、結婚してみると、ウチのカミさんもやはり言葉使いやちょっとした仕草にふっとお母さんの姿が垣間見られることがあり、その言葉がなかなかの名言であることに気付かされたりもしたのである。
僕自身も自分の中にいる父親の存在をひょっとした折に感じることがあり、親というものの大きさを思ったりもする。「親の背中」とよく言われるが、親の雰囲気や生きる姿勢を、子供は無意識な敏感さで察知しながら成長してゆくものであるらしい。
僕らには今、7カ月になろうとする息子がいるが、この子もやはり僕らに似るのだろうかと思うことがある。
息子には二つのツムジがあって、それが頭のテッペンでそれぞれ逆方向に渦を巻いているために、頭の毛が真ん中でモヒカン刈りのように突っ立っている。カミさんは「キューピーみたい」と言うのだが、僕にはどう見てもウルトラマンにしか見えない。しかも色は金髪のようでまるで「パンクしてる」と人は言う。
二つのツムジがあるのは僕、金髪っぽいのはカミさんを引き継いだのだろう。姿形はともかく、カミさんはオッチョコチョイで、僕はモノグサがから、もしこいつが親に似たとしたら可哀想なことになりそうな予感が胸を痛めたりもする。
ただ世の中にはまた、オジイチャン子、オアバチャン子という言葉もあって、親の影響だけを受けて子供は成長するわけでもない。
さしずめ僕はその典型であったのであって、直接的な影響はわからないが、故郷をイメージする時には必ずこの二人がそこに顔を覗かせている。
子供の頃ずっと二人の間に寝かされていたせいもあるのだろう。特に甘やかすでも厳しくするわけでもなかった二人の存在は、親子のような言うなれば具体的な関係とは違って、空気みたいになじみ易かったからなのだろうと思う。
ただ思い出としては相当に抽象化されていて、僕が子供時分を象徴するような一枚の絵として心の中にしまってあるのは、オジイチャンが風に動く竹やぶに目をやりながら黙って立っているという甚だ静かな風景なのである。
何故そんな風景をいつまでも覚えているのか僕にも分からないのだが、夏の夕暮れに農着を着て黙って立ち、手を後ろに組んで、優しい顔で裏の山とその前にある一群の竹やぶに目を向けているオジイチャンの姿が確かに僕の頭の中にはあって、ふとした折に思い出されたりする。
詩的な風景と言えばそうかもしれないが、僕がそのおじいちゃんの「風景」に感じているのは、超越とか敬虔とか、そういう改まった類いのものではなく、いかにも平凡な人生を生きて来た、それこそ平凡な一人の農夫が、昨日と同じような一日を今終えようとしている、そういういかにも造作のない、ありきたりなものなのである。
勿論、僕はオジイチャンをよく知っているわけではない。オジイチャンも夢や挫折や激しい思いをしながら自分の人生を生きて来た違いないだろうが、オジイチャンがそういう自分自身を語ることはなかったし、僕もオジイチャンの生き方をオジイチャンに尋ねることもなかった。
だからあるいは、僕のイメージは甚だしく実際を誤解した上に成り立っているのかもしれないが、たとえそう考えてみたとしても、僕の夏の夕方の風景の中に佇むオジイチャンの姿は、ずっとそのままだろうし、そのイメージがオジイチャンについての正しい理解だと確信できそうな気が僕はしている。
多分、それが平凡でありながら何よりも素朴な基本の姿だったからなのだろう。
世の中は今、個性、自己主張の時代で、平凡であることはマイナスに捉えられがちである。僕はそのことにささやかな抵抗を感じるわけだが、何をもって非凡とするのか、どうあれば自分らしいのか、そうした問の答えはなかなか特定の出来るものではないし、そうした問のないところで言われる個性という言葉にも納得しがたい。
もっと単純にはそれは僕が引き継いでしまった「風景」とのミスマッチなのであろう。平凡は寂しいが、非凡であることに齷齪する人生こそが最も平凡なのだという逆説を、僕らはその時、矛盾として負わなければならない。
漱石に次のような有名な句がある。
大人物が「小さき人」を求める思いを、僕のような小人物が「小さき人」を求める思いの引き合いに出すのは烏滸がましいが。
菫程な小さき人に生れたし
日常の些細な小さな生の中にこそ大切なものがある、と思いたい。
(土竜のひとりごと:第34話)
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