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ネタバレしませんが、今夜は『愛の不時着』への愛だけ語らせてください


大変だ!大変だ!
大事件だ!!

こんな危機が、かつてわたしの人生に訪れたことがあっただろうか。

考えてみる。

……

……

いや、思いつかない。


なんとわたしは、

韓国ドラマ『愛の不時着』に恋をしたのだ。


今年の流行語大賞候補にもなっていて、今最も勢いがすごい韓国ドラマの『愛の不時着』に恋をしているのだ。

ここ数日の、わたしの24時間は『愛の不時着』に覆われていて、息もできない。

起きていれば『愛の不時着』を観ているか、『愛の不時着』のことについて考えているか。

眠れば、『愛の不時着』の夢をみる。

他のことなんか考えたくない。

わたしの日々がこの一週間、『愛の不時着』に飲み込まれている。


これを書いている今現在も、正に『愛の不時着』のサウンドトラックを聴きながら溢れる涙を拭いながら、溢れる愛をキーボードにぶつけ、ぼやけてゆく画面に反映させている。


わたしがここまで韓国ドラマにハマる、というのは完全に予想外の出来事であり、自分のことながら自分が知らなかった自分であり、戸惑いを隠せず、しかしドバドバと溜まりまくる愛をどこかにぶつけなければ、わたしの心は破裂してしまうと思い、大学のレポートよりもこのnoteを優先して書いている。


英語を勉強していたときは、いやというほど海外ドラマや映画を観ていたが、決して韓国ドラマには手をつけなかった。

ヨン様とか名前は聞くけれど、全く興味がわかなかったし、そもそも英語に憧れがあったわたしは、とにかく英語の作品以外を観る気は全くなかった。

韓国ドラマの「か」の字も頭をよぎらなかった。


そんなわたしが、今になってなぜ突然韓国ドラマを観ようと思ったのか。


『愛の不時着』を観ようと思ったのは、大好きなジャーナリストさんである安田菜津紀さんが『愛の不時着』についての愛を語っていたからだ。

菜津紀さんはとても大切な社会問題や、政治についての問題をわかりやすく投げかけてくれる素晴らしいジャーナリストさんだ。

そんな素敵な菜津紀さんがどっぷりハマってしまった韓国ドラマってどんなのなんだろう……

これは観なければ!!

となったのが観始めたきっかけだった。

これが菜津紀さんでなければ、わたしは絶対に観ていない。

これまでも、何度か友人に韓国ドラマを勧められたことはあったのだが、興味を持ったことは一回もなかったからだ。


がっつり「食わず嫌い」だった。


しかし今、本当に思う、菜津紀さんに勧められてよかったと。

菜津紀さんに出会えて(出会ってはいないけれど)良かった、と。



『愛の不時着』を観ていなかったわたしと『愛の不時着』を観終わったわたしでは、確実に違う人間になっていると実感している。

初めにわたしが『リ・ジョンヒョク』に恋をしたとは書かず、『愛の不時着』に恋をしたと書いたのは、そういうことだ。


本当のことを言えば、わたしも例にもれず数えきれないほどいるであろう多くのファンの方々と全く同様に、「リ・ジョンヒョク」に恋をしている。


『愛の不時着』の主人公のヒーロー役である「リ・ジョンヒョク」は本当に素敵な人で、パーフェクトで、あんな人が私の人生に現れないかな、と街を歩いて探してみたりしている。

可愛さと格好よさと、愛しさともう全てを兼ね備えた、「リ・ジョンヒョク」みたいな人が現れてくれないかな、と願いながらこの一週間生きている。


それでもわたしが頑なに、『愛の不時着』に恋をした、と言っている理由は「主語を小さくする」という言葉の本当の意味がわかったからだ。

この「主語を小さくする」という言葉は、安田菜津紀さんと並んで大好きなジャーナリストである堀潤さんがよく言う言葉だ。

彼のドキュメンタリー『わたしは分断を許さない』を観て、彼が伝えたいことが、わたしの胸を強く、強く突き刺した。


でもじゃあ、それを実感するところはどこだろう。

本当の意味でこの言葉を噛み砕けた、と思ったのは『愛の不時着』の舞台や、登場人物が「北朝鮮」であったことだ。


わたしは昔から無意識に分断していたのだと、やっとわかった。

わかっていると思い込んでいた「無意識でいる」ということの意味がようやくわかった。

「北朝鮮は変な国」「北朝鮮は危なくて怖い国」単純な言葉で言おうとすればこんなイメージで、それが当たり前で、日本でどのニュースを観たって同じことを言っている。


でもそれは「北朝鮮国家」であって、北朝鮮の国民たちではない。

きっと北朝鮮のどこかには、ピョ・チスのように陽気で日々を楽しく生きていて、ときにはほんの少し仕事をさぼっちゃう軍人さんがいたり、ナ・ウォルスクのように意地悪に見えるけれど、本当は村の人たちをとっても大切に思っている人民班長がいるのだと思う。

きっとお父さんの帰りを夜遅くまで待っていたり、今日の食事もままならなく、1日1日を必死に生きている子どもたちがいる。

憎むのでもなく、同情するのでもない。

ただそこに、一人一人の生活が、命があるということを理解するということ。


想像し得ない、それぞれの生活が人の数だけ、あの「北朝鮮」にだってあるのだ。

ただ生まれた国が違っただけだ。

それなら北朝鮮の拉致問題を憎んでも、北朝鮮で必死に生きているチョン・マンボクやマ・ヨンエをまとめて憎むことは正しいことではない、とわたしは思う。


日本でだってそうだ。

「日本」という国が行っていること全てが民意ではない。
わたしたちは「民主主義国家」で、意見を表明でき、彼らは「独裁国家」の下生きているかの違いだ。

でもその答えは、『愛の不時着』で韓国に訪れ、脱北するチャンスを与えられたのに帰国することを選んだ彼らの選択を見たら、一つではないことはわかる(あのドラマがどれだけ忠実にその辺りの現実を描いているのかは別にして)。


北朝鮮が政府として犯した「拉致問題」は許せないし、いまだ解決に至っていないことに強い憤りを感じる。

それでもそれは、ヒョン・ミョンスンがやったことではない。知っていたなら、できることなら彼女だって大きな声をあげて反対したかっただろう。


外交問題が、国交がそんな単純な話ではないことは、もちろん百も承知だ。


それでも今後、ニュースなどで北朝鮮の映像を観るたびにわたしはきっと、そこに彼らをみる。


でもそれは「北朝鮮」に限らない。

世界のどこであっても、そこにいる一人の「人」としての生活を、人生をみる。


そしてわたしは強く思う。世界が少しずつでも主語を小さくできたなら、その分だけ涙を流す人は減るだろう、と。

命を落とす人は減るだろう、と。

『愛の不時着』の制作陣が、視聴者にここまでの感情を抱かせようとしたのかはわからない。

でも、もしそうなのだとしたら、こんなにも強く平和を望んでいる人の大ファンにわたしはなる。

彼らの全ての作品を観たいと思う。


『愛の不時着』の第1話を観たのは忘れもしない11月1日だ。

全16ストーリーを11月5日の昼間に観終えた。現在はちょうど、誰もが通る道、「第二回・愛の不時着観賞会」を行っているところだ。

ということは単純計算でわたしは8日間ぶっ通しで、泣いていて、「リ・ジョンヒョク」のことを考えて恋をして、ときめいているということだ。

「リ・ジョンヒョク」のみどころか、全ての登場人物が愛おしくて、感情移入してしまって、どうにもできないこの強い想いをやり場のないままに空にぶつけるのだろう。


そしてわかっているのは、これから先のわたしの人生でこの勢いはまだまだとどまることを知らないといういうことだけだ。


さ、noteも書き終わったし、そろそろ「続 第二回・愛の不時着観賞会」に戻りますね。


おやすみなさい。

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