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『AGANAI-地下鉄サリン事件と私』

さかはらあつし監督のドキュメンタリー映画『AGANAI-地下鉄サリン事件と私』を観た。

そもそものきっかけは、過去に森達也監督の『A』と『A2』を観て「オウム真理教」という宗教団体のことを少し知っている気がしたから。

「オウム真理教」と言ったら、主語が大き過ぎるかもしれない。

それよりも荒木浩という人間に興味があるからと言った方が、わたしの想いに近いのかもしれない。



以前noteにも書かせてもらったが、この二本のドキュメンタリー映画も荒木浩が主な出演者として撮られている。

荒木浩は、オウム真理教でもAlephでも広報を担当する信者の一人だ。

書籍『A』を読み、更に映像で『A』と『A2』を観たから、『AGANAI』はわたしが観た彼を題材にした4本目の作品だ。


オウム真理教によって世界に衝撃を与えた地下鉄サリン事件が実行されたときわたしはまだ幼かったので、その大事件をインターネット上でしか知らない。
だからといって、彼らが犯したこの事件を肯定する気などもちろん全くないということは初めに書いておきたい。


『AGANAI』は地下鉄サリン事件の被害者である、さかはらあつし監督によって撮られたドキュメンタリー映画だ。さかはら監督は、後遺症やPTSDに苦しめられ続け、未だ開放されていない。その上で、事件から約20年が経過した2015年にこの映画を撮った。
被爆してからこれまでの監督の苦労は計り知れないが、それでも彼が抱えているものは、スクリーンを通して少なからず伝わってきた。


この映画の中では、地下鉄サリン事件の「犯人」である元オウム真理教、現Alephの幹部である荒木浩と、その被害者である監督のやり取りが彼らの地元である京都で繰り広げられていた。

さかはら監督が元オウム真理教、現Alephにコンタクトを取ってからこの作品に着手するまで、およそ一年かかったのだという。

地下鉄サリン事件の被害者から連絡がきたときどう思ったか、と聞かれた荒木さんは「ついにきてしまったか」と思ったという。事件からほとんど20年近くが経った頃の話だ。


森達也監督の『A2』が撮影されたのが、2001年。そして『AGANAI』が撮られたのが2015年。

スクリーンを通して目にした荒木浩に抱いた感想は「年をとったな」だった。
そしてこの作品の中盤には「彼自身は何も変わっていないのだな」と思った。

変化したのは普通の人間らしく一年ずつ年を重ねた彼の外見で、それ以外は『A』で見た彼と何ら変わってはいないと思った。


しかしこの映像を観終わったとき、その見方さえも間違っているのではないのか、と思わされた。
荒木浩は、1992年にオウム真理教に入信してから何も変わっていないのかもしれない、そう思った。

荒木さんが年を取ったことは、もしくは彼が追われる年齢という数字だけが変わってしまっていることは、だからこその大きな違和感だった。


スクリーンに映る彼が向き合っているものは一体何なのだろう。


わたしには、彼が本来向き合うべきものから逃げているようにみえたが、もっと言えば、向き合うべきものの正体すらわかっていないような感じがした。

それはわたしたち「外の人間」から見れば、全く大したものではないような気がしたが、彼が見ようとしているものはあまりに大きすぎて、人間一人で向き合いきれるものではない気もした。


荒木さんはとても頭のいい人だと思う。それは彼の学歴からみても明白で、会話中の間の取り方や言葉の選び方にもそう思わされる場面が幾度もあった。

しかし発言の一つひとつが、何にも向き合うことのできない人間のものにしか、どうしても聞こえなかった。


見方を変えれば、強いて言うならば、彼のことばを借りれば、荒木浩は被害者だ。強く信じていたもの(者)に、大きく裏切られた。

批判を恐れず敢えて言うならば、彼にとってそれが大きなトラウマとなり彼自身を悩ませ、未だ苦しめている。

団体の名前こそAlephに変えたものの、未だ教団の施設には麻原彰晃の写真が飾ってあり、信者たちは彼を崇めることを諦めていない。


わたしは宗教というものにのめり込んだことがないので、何かを「崇める」ということで起こる人間の心のうちはわからない。

でも宗教学を勉強するぐらいだから、宗教にすがりたくなる気持ちもわからなくもない。

以前noteに書いたように、信じることは人を強くするのだと思っている。
そして、同時に弱くすると思った。

荒木浩という人間は、全ての中間で揺れていた。そして彼は、どちらかに振り切ることなどきっと一生できない。
そんな人生、わたしだったら恐怖しかない。


家族、友人、大切な人たちの思いに背き、自分の居場所はここにしかないと入信したオウム真理教。だからこそ彼は信じ続けなければならない。自分が信じると決めたものを「途中」で諦めることなどできないのだ。
自分が過去に置き去りにしたものたちに「自分は間違ってはいない」と証明しなければいけないと思っているのかもしれない。

家族の話をするシーン、その度に彼は涙を流していた。さかはら監督の問いかけに答えられないぐらい、感情を揺さぶられていた。


「出家」することによって「捨てた」家族。

しかし、彼が言う「本当の意味での出家」など成し遂げられてはいなかった。荒木浩のような人間に、出家なんてできない。
さかはら監督と時間を過ごしたことで、きっとさらに痛感させられたことだろう。

荒木さんはお人好し過ぎると思う。優し過ぎたのかもしれない。「いい人」過ぎたのかもしれない。その人間性の根本の部分は、入信する前の彼と変わっていないのだと思う。

荒木浩の学生時代の知り合いに、彼の人柄を尋ねたら「プライドは高いけれど、人のことを一番に考える優しい人間」と返ってくるような気がする。あくまでもスクリーンを通して受けた彼の印象に過ぎないが。


絞り出すように語った、弟さんの病気を通じた苦悩の話。それも含め、多くの外圧に耐えきれるほどの強さなんて持ち合わせていなくて、逃げるように選んだ道だったのかもしれない。
それを超えられる強さがほしかったのかもしれない。

自分を肯定できると思ったのかもしれない。最後の頼みの綱だったのかもしれない。



『A』、『A2』、『AGANAI』、どの作品の中でも、荒木浩は自分から謝罪するという行為をしない。

さかはら監督の両親を前にして監督に促され「あ、忘れてた。謝らなきゃ」といったような、流されたままの謝罪をしたように、わたしにはみえた。


なぜなら、彼は「直接」地下鉄サリン事件に関わってはいないから。

事件から25年経った今でも、彼はきっと加害者にも被害者にもなりきれていないのだ。彼はオウム真理教の信者であったことで、一度も罰せられたことがない(社会的制裁は受けているだろうが)。

しかし、彼がその宗教団体に所属していたのは紛れもない事実だ。

世間一般に言わせれば、連帯責任だ。
オウム真理教を継承した団体であるAlephに未だ所属している以上、彼は被害者に対して誠意をみせるべきなのだと思う。


しかし、彼が何度も口にしたのは「尊師の口からは何も語られていないから本当のところはわからない」ということ。

麻原が何を意図して地下鉄サリン事件を実行させたのか、そもそもオウム真理教は本当にそんな団体なのか。
崇めていた人物に、全く予期していないやり方で裏切られた彼は、その真相を知るまではどうやって生きるべきなのかわからないのだ。

そして麻原始め、事件に直接関わった人間たちの死刑は既に執行されてしまったから、そういう意味で彼が自由になれる日はもうこない。


少し話は飛んでしまうが、わたしは死刑制度に反対だ。今回はその話はメインではないので書かないが、そもそも誰かが誰かの命の重さを決められるという意味がわからない。

語られるべきことが語られず、知るべきことを知ることができないまま、そこで時間が止まってしまう。被害者側でも加害者側でも、荒木浩のような残された人間が生まれてしまうのは、死刑という制度が原因の一つであるのは明白だ。

だから何もはっきりとさせないまま、2018年の死刑は執行すべきでなかったと思う(そしてこの件とは全く関係ないが、相模原障害者施設殺傷事件の加害者も何も語らせず死刑にすべきでないと強く思う。彼を死刑にすること自体、彼の罪を肯定しているようにみえてしまう)。


被害者であるさかはら監督は、そんな彼にほとんどのシーンで友人のように接する。一人の人間として対話する。理解しようと話しかける。

その被害者と(世間的に、そして被害者からみた)加害者のやり取りは、互いの感情を大きく揺さぶり合う。


さかはら監督が「素直になればいい」と言った。荒木浩は、その意味を痛いぐらいにわかっていただろう。
素直になればいいのだ。死んだ祖母を想って涙する。家族を思って涙する。
それが、紛れもなく荒木浩という人間なのだ。なぜその涙を隠さなければならないと思わせたのか。
彼が素直になることが、本当の意味で彼が探している「出家」につながる気がしてならない。


そんなにも大切なものたちから切り離し、いつまでも苦しみを与え続ける存在ならば、一体それはなんのための宗教なのだろう。


大切にすべきものを大切にできなくて、何が信仰なのだろう。

「出家」がそんなに偉いのだろうか。


オウム真理教の罪、その責任を背負って生きてゆくと言った荒木さん。しかし、尊師の想いを知るまでは謝罪などできないとも言う。

間に挟まったまま、そこにとどまり身動き一つとれない荒木さん。


彼は一体、なんのために生きるのだろう。


本当の意味で「責任を取る」のならAlephから抜け、ご両親、家族を大切にするべきなのだ。

そうでなければ、彼が言う「責任」を背負ったまま生きて何があるのだろう。

彼が死ぬとき、生きたかった人生だったと言えるのだろうか。
そこに向けて生きているつもりなのだろうか。


地下鉄サリン事件が先だったら、オウム真理教には入っていなかったと言った荒木さん。

それがあなたの答えではないのか。


さかはら監督と荒木さんが、川辺で楽しそうに水切りをしていたシーンが印象的だった。

帰ろうとUターンしたのに、良い石を見つけたから、と一回分多く石を投げた荒木さん。オウム真理教に入信していなくても、もしくは入信する前であっても、彼はきっと同じことをしていたのだろうと思う。


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読み返してみたら、映画の感想というよりほとんど荒木さんへの想いになってしまった……

でもコンセプトがとても興味深く、よっぽど人間の色々な面を多角度から見られる作品で、もう一度観たいと思っています!
オススメ!

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