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映画『A』と『A2』を観た、そして最近考えることとリンクした


先日ようやく噂の『パラサイト』を観た。
韓国の光と闇に切り込みどころか、どがぁーーん!と爆弾をぶちこんだような、見事な作品だった。

韓国の友人も日本人の友人も揃ってこの作品を大絶賛しており、観なければ、と思った次第だったが、観られてよかったと思う。


この映画がこんなに評価が高いということは、あれが隠しきれていない本当の韓国の姿というわけで、しかしひいては日本も変わらないのだと感じる。

経済大国にっぽんでやってきたこの国の労働者も、気がついたらいつしか綺麗に真っ二つに分断されていたのだ。


そしてそれはもはや容易に改変できるものではなくなっている。

というか、国がそこを見ようとしているのか、手をつける気があるのか、ということ事態、もはや疑問になっている。


ということで、今回は別に『パラサイト』の批評をしたいわけではない。

パラサイトを見るために1ヶ月限定で無料会員になった「U-NEXT」で、森達也監督の『A』と『A2』を見つけた。


初めて森達也監督の作品を観たのは『FAKE』だった。

その頃週に1、2回は必ず何かしらの映画を観に訪れていたミニシアターで偶然にも上映されていたからだ。

一時期日本で、毎日のように面白おかしくニュースにされていた「ゴーストライター」のお話。


このFAKEを観るまで、わたしはまんまと「メディアが作り上げた佐村河内」さんを知っていた。

いかに佐村河内氏が悪を働き、新垣さんが被害を受けたかがひたすらにくる日もくる日もテレビで流されていた。

だからわたしたち視聴者の目線は見事に「新垣さんかわいそう」だったし、その後、バラエティ番組に出演しそのことをネタにし「かわいそうなわたし」である新垣さんに同情していた。


しかしメディアに出なくなったその裏で、佐村河内さんは感情を持って生きていた。

どこからどこまでが「うそ」で何は「本当」なのか、結局詳細はわからず、そんなニュースもいつしか、テレビから消えていった。


一時期は文字通り「ときの人」となった彼らもあっという間に時代に殺された。

それでも、その目線はそこにあった。


人はあんなかたちで誰かをジャッジしていいのか、そんな疑問が残るドキュメンタリーで、森達也さんの視点がとても気になった。


誰も持ち得ない、意識しようと意識しなければ出会えない世界を見ている森さんの世界観がこの上なく気になった。

その後、森達也さんがオウム真理教を、テレビやニュースなどとは違う目線からみたというか、オウム真理教から見た世界の作品というものを書いていると知り、『A』という本を読んだ。

それを読み、実際に森さんがオウムの人たちの隣から撮った映像を観たいと思った。


だから無料会員になった「U-NEXT」で『A』を見つけたとき、これは運命だと思った。

すぐさま「再生する」を押し、一気に観た。
『A』を観終わるや否や、間髪入れずに『A2』を観た。


そうしてその結果、わたしはボロボロに打ちのめされた。

もうズドンズドンのぼろんぼろんだ。瀕死状態だ。


人間は意識しなければ、常に自分の目線からしか物事が見えない。

それは当たり前で、そこは責められるべきではない。


それでもやはり感じるのはあらゆる視点からものごとを見られる人の人生の方が潤うのだろう、と思う。


この2本のドキュメンタリーを観て、誰が悪いとか何が悪いとか、結局それはわたしの感情になってしまうから敢えては書かないけれど、『A』も『A2』も最後のシーンがとても心に残っている。

オウムを知る前の若かりし頃の自分の写真を眺める荒木さん。


近くに引っ越してきた「オウム信者」が何かやらかさないように、毎日のように見張りに立っていた近所の人は、気がついたら彼らに情が湧いていて、友人のようになっていた。

彼らが別の地に引っ越してしまうときには、どうにもできないやるせなさが画面からひしひしと伝わった。

これから彼らが近所が引っ越してくると知った別の地の人々は、彼らが何をしでかすかわからない恐怖に盛大な反対運動を起こしていた。


逮捕されなかったオウムの信者の人たちは、麻原彰晃たち上層部が何をしようとしていたのか、何をしたかったのが知らなかったようだ。

それでも、彼らのありようを全て映した上で互いに「情」が湧いてきたとき、森さんは少なくとも映像上で初めて、サリン事件について、その後の彼らのやり方に詰め寄った。


それに対して、荒木さんは何も言わなかった、言えなかった。


わたしはある一点から、遠く引いて見ていた「宗教」というものの勉強を始めた。

その勉強というものは、宗教に入ろう、とかでなく、ある種、人のあり方として、という部分でだ。

海外の人に多く出会うようになり、その中で日本以上に宗教に近いところにいる人たちに多く会ったからなのだと思う。


とにかく、大学でも宗教学をとって学ぶぐらい興味があった。

その中でやっぱり思うのは、新宗教であろうと既成宗教であろうと、ISISのような団体であろうと彼らは強く信じるものがあるから、「強く」生きられるのだ、ということだ。


そして、それはある意味「宗教」と言われる団体にいなくても、きっと人間の潜在意識に潜んでいるのだと思う。


自分がこうだ、と思ったらよくも悪くもそれを信じ込み、周りが見えなくなる。

その光のある一点の視線で、それを強く信じるようになる。


それは常にいいこと、もしくは悪いことではない。

だからこそ、常に別の視点を自分の中に持っておくことが大切なのだ。


そうでなければ、自分がそれに締め付けられてしまう。
辛くなってしまう。

世界はそこだけではない、と思えなくなってしまう。


佐村河内さんも新垣さんも、ISISの活動家も、オウム真理教の人々も何かを強く信じすぎてしまったのかもしれない。

そこ以外にもっともっと広い世界があるということを忘れてしまった、もしくは知らなかったのかも知れない。


そしてそれは言うなれば、ひいてはわたしたち一人一人にも全く当てはまる話ではないだろうか。

信じすぎているが故に、自分が正義だと思いすぎてしまう。
それを自分の中だけで解消できるのなら、収拾できるのなら、なんら問題はないと思う。しかしその間違った正義を間違っていると気付かぬまま他人を傷つけてしまうのだ。


疑うことよりも信じることの方が良いときの方が多いかもしれない。
でも信じすぎてしまうことは、ときにとんでもない事件を巻き起こしてしまうかも知れない。

だから、できるだけ多くの視点を常に持っていたい。

持っていられるように常に意識していたい。


そうすることで、他の誰かを傷付けずに済むかも知れないから。


わたしは森達也さんの視点がとても好きだ。

そして『A』と『A2』を自分の意志で観てよかったと思う。



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