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マンガ ヘルプマン!から見る介護 4

第4巻は、高齢者の性問題だ。

入居施設でのじじばばの恋愛やセックスは御法度か?

そんな課題に真面目に向き合っているのが凄い。

 この巻の表紙をめくると「老人の『自分らしさ』を奪ってはいませんか?」とある。

 この『自分らしさ』は、介護の世界では、定型句である。

「自分らしく・本人らしく暮らせるよう支援しましょう」

「この方の、本人らしさはなんだろう?」それを大切にしよう。という所からカンファレンスは始まる。

 しかし、それが少し「普通」から外れると、当たり障りのない、「普通」な生活の型にはめられたケアプランを作られ、皆同じようなものとなっている。

 つまり、個別性をもたせよう、らしさを大切にしようと言いながら、少し面倒だったり手のかかるようなことになると、「1人だけ特別なことさせると、不公平だから」とおかしな理屈をつけ、結局みな同じにする。

 特に「性」については、押さえつけられる部分が多い。

 じいさんばあさんが仲の良いのは微笑ましくみてもらえるが、それが肩を抱いたり、接吻をしようというものなら、即「問題行動」とされ、職員の監視下のコミュニケーションになるだろう。

 作品の中でも、じいさんやばあさんが

「色気づいたらどうなると思う?」

「それが家族や世間に知られたら」

「考えただけでもゾッとするわ!」と描かれている。


 一方、じじばばたちは、異性への思いを取り戻すことで、生き生きとしてくる。

 これは実際に現場でも感じることだ。じじが女性介護者に優しくされるとニコニコするし、ばばも男性介護者に優しくされると嬉しそうにする。

 人は年齢に関係なく、「色気づく」のだ。

 それは生きるうえで、楽しみでもあり、張り合いでもあり、正常な「欲」なのだろう。それが健全なのだと思う。

 下ネタで楽しそうに会話をするじじばばは多い。

 社交ダンスをしたいというばばは、「男性と手をつないで踊るのがいいの」と嬉しそうに語る。「主人じゃ、ダメ」なのだとも。

 今、平日の日中のラブホテルは高齢者の利用が多いと聞く。

 人生100年時代。連れ合いを亡くした高齢者が、再び二度三度と、恋に花を咲かせるのは至極当然の事だろう。

 しかし、介護が必要な高齢者になると、ここに家族の存在が出てくる。

 自分の親の、「男」や「女」の姿を見るのは嫌悪感を受けるかもしれない。しかも、介護を受けている身で、と思うだろう。理屈ではなく、感情がついていけないかもしれない。

 もともと性に関しては多くのコンテンツがあるにも関わらず、オープンにはしない社会である。「本人の問題」であっても、放っておいてはもらえないだろう。

 物語の中では、その色ボケじいさんは、共同生活に支障をきたす行動をするということで、他の施設へ追い出される。

 全く知らない環境へ意味も分からず、自分の意思も関係なく強制的に移される。環境の変化はものすごいストレスを与える。

 認知症ケアにおいて、特に配慮しなければいけない事だ。

 しかしそれを介護の専門職側が、「問題を解消するため」と言って、おこなってしまう。

 結果、じじは混乱し、心身の安定を崩し、急死する。じじが元居た施設では、「男っ気」が急に消えたことで、ばばたちが混乱をし始めた。

 じじばばたちをけしかけた「百太郎」は、やりすぎだったかもしれないと反省するが、ばばたちのために、自分が男っ気の役目を演じ、ばばたちをまた笑顔にさせる。

 不安と混乱の中にいた入居者たちが「人間味」を取り戻した姿をみて、施設の管理者は、

 「百太郎のやっていることは常軌を逸している。でも、何が正しくて間違ってるのかを決めるのは入居者さんの表情や仕草だけ」だと泣き崩れる。

 この葛藤が、現場と管理側の現実だろう。

 「何のために」しているのか。それがいつの間には、「している」ことが目的になってしまう。

 何のために、誰のためにという目的は忘れ去られ、ただ「する」ことが、仕事をしていることになってしまう。

 その「する」ことを阻害するもの(じじばば)は、問題老人とされ、排除されてしまう。

 「協調性」のない者は、収容所いきなのか。

 「自分らしさ」をもって生きていくことはできないのか。

 それは、高齢者個人の力でどうにかすることではない。

 どうにもできないのだ。

 問題は、高齢者にあるのではなく、社会の側にある。

 介護する側の理念、自分事として考えられる社会の寛容さが必要だ。

 今は、「自分らしさ」にも周囲の目や協調、同調を意識しなくてはいけない。

 あなたの老後に、希望は見えますか?

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