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お別れの準備

親戚のおじさんの命が、多分もうすぐおわる。


数年前に癌が見つかったけれど、高齢だったからさほど進行はしなかった。何度か繰り返していた肺炎で、一昨日また入院した。でも、病院の先生が「このまま亡くなっても、老衰になります」とのこと。


だからね、順番通りっていう必然で、避けることのできないお別れなのは頭ではわかっていた。でもいざその時が近づいてくるとなると寂しいなと思う。ホロホロ涙がこぼれる。

ただそこで私を救うのは、親戚も含んだ家族の死生観なのかなと思ったりする。それぞれお墓がなんとか宗のお寺にあったりするから宗教事情はわからないけれど多分みんなよくわかっていなくて(適当族)、共通しているのは「死ぬなよ」って別れ際にいつも言えること。死ぬなよ、わかったわかった、そう言っていつも最後だと思いながら接して、でも次が当たり前のようにやってくる事を願ってバイバイする家族。

「そろそろ逝くか」なんて冗談をこぼす人もいるけれど「え、今ちょっと忙しくて葬式とか困る。もう少し待ってくれ」なんて。


今回おじさんがそろそろってなって来た今、「葬式に行けなくてもいいから、後もう一回喋れるうちに行っておこう」って言う家族の方向が同じで嬉しい。


おじさんの子供たちも、「順番ですから」と、きっと私たちに見せているのは外側なのだろうけれど今この状況に慌てはしていない。


さて私にできることは何かといえば、写真の整理だ。今まで撮りためて来たデータをプレゼントする。生きているうちに見せるのはもちろんだけれど、お葬式の準備だって兼ねている。お葬式でどれだけ、おじさんの笑顔をみんなの記憶に残せるかなって、どれだけ楽しい時間だったのかって。私はおじさんの人生の時間で言えば三分の一にも満たない時間しか共有はできていないのだけれど、それでも私がファインダー越しに見る世界は、おじさんの笑顔をいつも捉えていたんだよ。


2000年くらいからの写真が一つのフォルダに集まった。少しずつ歳をとって、髪の色が変わり、頬骨が出て来て、目も小さくなった姿が残っていた。


あー、後悔、ないな。


親じゃないから。じいちゃんばあちゃんでもないから。
後悔するもしないも、ご自由にっていう程度の血縁かもしれないけれど、じいちゃんと同じくらいいつもそばにいてくれた大好きなひとりの人と過ごした時間を振り返って、寂しいけど後悔ないな、って思える今が嬉しい。
泣いちゃってるんだけど、決して言い聞かせているわけじゃない。
約500キロ離れた街にすんでいて、頻繁には会えなかったけれど、生きてるうちにできること出来たなって思う。



願わくは、今週末まで命の灯火が消えない事を。


写真を持っていって、ゆっくりお話ししよう。
ベッドに横たわっていようともう一枚写真を撮ろう。
思い切りハグをする、なるべく泣かないで。
秘密の部屋にあるガラクタ頂戴ねって断って、
「また来る時までご飯しっかり食べるんだよ」って言わせて欲しい。

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さぁ最後までしっかり生きていこう。本当に、見本みたいな大往生。
自信を持って最後まで呼吸をしていておくれ。
苦しくなったときは、お昼寝でもしながら気を紛らわせておいてよ。


死ぬな、とはもう言わないからさ。
ありがとね、ってご挨拶の猶予くらい頂戴よ。


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