美しくあろうとすること

子供たちの新学期が始まって数週間が過ぎ、静かな日常に戻った事にほっとしている。私は静かな日常が大好きだ。そしてごくたまに、軽やかでキラキラする時間が、ぽっと入るのが、気持ちよくてちょうど良い。
晴れ渡った空が私をご機嫌にさせる日は、無性に外を歩きたくなる。夏は終わったけれど、まだまだ冬までは時間がある。お気に入りの真っ白なコットンのセーターに、大好きな、ブルーの大きなスカーフを羽織って、車ではなくて、歩いて図書館に出かける。建物の中にいても、大きな窓越しから青空が広がっているのを見るのは、本当に気持ちがいい。

図書館で数時間、落ち着いて書き物や読書をした。帰り道の私の足取りは軽やかで、まさに前向きな気持ちでいっぱいだった。驚くほどの晴天の中、すがすがしい風が吹いていた。お気に入りの白いセーターが、今日の気分にぴったりだなと思いつつ、首に巻いた、これまた大好きなスカーフの、肌にふわっと軽く触れる感じまで、気持ちよかった。こうなるともう、何もかも気持ちがいいという感じだ。流れるきれいな空気と自分が一体になったような気分だった。

慣れた歩道をさっそうと歩いていると、道路の向こうにある駐車場に立っている男性と、明るく目が合った。
「君、とてもステキだね。」
はっきりした大きい声は、道路越しにしっかり私に届いた。かなりの長身で、立派な風貌の、お爺さんという年齢の人だ。雰囲気としては、何か大きな組織の上に立つ人という感じだった。
一瞬、私の動きが止まった。一瞬にも、いろいろな幅があるけれど、私が、自分の止まった一瞬をはっきり感じられる一瞬だった。
人間はすごく短い時間に、結構な事を考える。私は他の人に比べると、行動も、決定も、生きるスピード全てがゆっくりだ。それでもその一瞬に、私が考えたのは、これは女性をナンパするというたぐいで、私はからかわれているのかどうかという事だった。そういう事ならば、無視するのが一番いい。それに、私より若い人たちがその歩道を歩いていたから、誘いの声をかけるなら、彼らにする方がいいだろう。あえて私に声をかけ、私が喜んだら、私は大まぬけという事になる。でもその人は、老紳士という感じで、はっきりした声と、うれしそうな表情から、誠実で真っすぐに私に声をかけていると思えた。私が、歩いている時に感じていた、気持ち良さとか前向きな気持ちとか、きれいな空気との一体感まで、この人には見えたのかとも思ったし、この人も、同じような気持ちを持っているのかもしれないと思った。スローな私としては、一瞬のうちに、かなりの事を考えたことになる。
「ありがとう。」
私は道路の向こうに届くはっきりした声で、その老紳士に答えた。満面の笑みを送るのも忘れなかった。気持ちのいい空気に、さらにキラキラした何かが散りばめられた感じだった。
老紳士の、「君、とてもステキだね。」の言葉が、頭に響く。私は、年齢を重ねてもステキでありたいと思ったし、美しく生きたいと思った。

若さゆえの美しさは、いつの時代、どこの世界でも共通な美しさだろう。けれども、美しくあろうという気持ちがあれば、幾つになっても、美しくあることは可能だと私は思う。

かなり小柄な人たちの、その背筋をまっすぐに伸ばした姿勢に、はっとする程の美しさを感じたことが、今までに何度もある。歩いていても立ち止まって会話を交わすにしても、ピシッとしていて、目もまっすぐにこちらに向いている。体は小さいのに、そういう人の、歩いている世界や見ている世界は、大きいような印象を受ける。
それとは反対に、残念なくらいに見た目を悪くしているのが、背筋を丸めた人たちの姿だ。若い人がレストランで食べる時の姿だったり、大人が通りを歩く姿だったり、子供が座って勉強している姿だったりする。日本に行くと、特にこれが目に付く。病気のために体をまっすぐにできない状態のことではない。
ある夏、帰省中に行ったスポーツジムで、インストラクターの方にその話をしたら、その方は大きく同感してくれた。
「日本では、控えめであろうとするあまりに、背筋を曲げて小さくなろうとする人が多いんですよ。出るくいは打たれるみたいなところを気にしてね。田舎は特にそう。いつもそうして自分を小さく見せようとするから、もう、歳をとると、完全に腰は曲がっちゃいますね。」
「本当にそんな感じですね。人とすれ違うにしても、こんにちはって、挨拶を交わすっていうより、何だか、すみませんって感じで、同じ所を通ったのを申し訳なさそうにする人がいるでしょ。だから特に、この田舎の年寄りは腰が曲がっちゃうのかしら。」
そのインストラクターの方は、背筋を伸ばしてのウォーキングや、気持ちのいい姿勢というものを、普段から熱意を持って教えているとのことだった。インストラクターの方との会話は、とても楽しかった。
まっすぐな姿勢の美しさを自分の姿として選んだら、私たちはもっと美しく見えるし、もっともっと、前向きに気持ちよく生きていけるような気がした。

義兄が以前、日本とのつながりがある会社で勤めていた頃の話として、私に教えてくれた事がある。
「日本からエグゼクティブとか、大事なお客さんが何人か来る事があるだろう。彼らが近づいてくると、すぐわかるんだよ。どうしてだと思う?」
「どうしてだろう?日本語で話してるから?」
「違うよ。日本人の多くは足を引きずって歩いているだろう。あの足を引きずる音が、通路の向こうからするんだよ。すごくおかしいんだよ。職場のみんなが気づいていたよ。」
義兄は思い出しながら笑っていた。
男女差に関係なく、年齢に関係なく、靴底を引きずって歩いている人は多い。家の中でスリッパを履いている感じだ。実は、外で靴を履いてのその歩き方は、美しくないだけでなくて、耳に不快でもある。なのに自分のそれにはなかなか気づきにくい。
スリッパでつちかった歩き方は家の中だけにして、外では足を引きずらずに、さっそうと歩きたい。一歩一歩に汚れや惰性を引きずらず、快活に進むのは、気持ちがいい事でもあるはずだから。

お金と労力を多少なりとも費やして、知識と経験とセンスで表現する身なりの美しさは、幾つになっても私たちの生活に華を添えてくれる。男性であっても、女性であってもだ。日々、大切にしたい。
そして、お金や労力がまったくかからず、意識と習慣で作られる美しさも、忘れないでいたい。自分では気づきにくい、姿勢や歩き方、笑顔や視線に代表される表情は、そんな美しさだ。
目に訴えるのとは別の、言葉で表現する美しさも、実はパワフルだ。明るくあたたかく人に声をかけるとか、心を開いて、はずむように会話をするとか、いたわりや励まし、感謝や称賛を惜しみなく口にするとか。声になって届くものも、読まれるために書かれるものもだ。

美しさは、若い人のみの、そして生まれついてだけのものじゃない。いくらも私たちは、美しくあろうとすれば、年齢を重ねる中でも、もっともっと、美しく自分を表現しながら生きていけるのだ。

通りの向こうから、はっきりした声で私に称賛を送ってくれた男性は、なかなか粋な老紳士だ。言葉を使って美しく生きるすべを、知っているのだ。その言葉は、キラッと光るクリスタルのペンダントのようだった。否定して跳ね返すなんて、とんでもない。そんなステキなプレゼントは、笑顔で「ありがとう」と受け取るのだ。
たまにそんなステキなプレゼントを受け取るのは、とても楽しい。そしてそんなプレゼントを、人に贈るというのも、とても美しい生き方だなと、この老紳士に思った。

『空の下 信じることは 生きること 2年目の春夏』より

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