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掌編「この地球のどこかで」

  私が生まれたのは、この場所だった。偶々だったのかも知れないけれど、運命だったかも知れない。時代が一つ違うと、全然違う日常が私を待っていた。場所が違うだけでも、やっぱり全然違う暮らしをしていただろうと思う。
 結果的にここに居る私は、幸せかと人に問われたら、どう答えようか。三十年以上も生きて来て、まだ求めてしまう私を、人に向かって、幸せですと言っても良いものだろうか。求めるものが大きすぎて、自分でも笑っちゃうんだけれど、それでもどうしても欲しい。そういう自分は、愚かだろうか。
 だけど、求めるものがあるから、幸せだとも言えるんだと、最近気が付いた。追いかけるものがあると、人は懸命になるみたいだ。追いかけるのは、とんぼでも良いし、鮪でも良い。ひょっとしたら、「生きる意味」なんていう人類の壮大な謎も、解けそうな気付きじゃないかしら。なんて飛躍もしてみる。

「生きる意味」か。十代の頃は、神経をすり減らしながら考えた。頭が痛くなっても、どうせ答えは出ないのに考えた。考えないといけないような気のして、考えた。
 二十代の頃は、十代で憧れた二十代になったのだから、答えもそろそろ出るだろうと思って、考えてみた。けれど社会と自分とを比べてみて、まだ足りないのかと知った。そうすると足りないなりにもっと考えればいいじゃないかと勢い込んでしまう。要するにそれが若いってことだったみたいだけれど、そうやって挑むように考えて、それでも謎のまま、二十代で待ち望んだ三十代へ持ち越した。
 三十代に、私は期待を沢山持ち込んだ。一緒に、後はもうなるようになれという開き直りも持ち込んだ。かちかちだった自分の頭を、少しでも柔らかくすることに頭を使って、そうして少し閃いた事がある。 

「生きる意味」を考える必要が無いということ。今この瞬間、息を吸って吐いている、心臓が鼓動を聞かせるこの瞬間が全部生きているということ。生きるって、それだけのものでいいのだ。一日を無事に終われたとしたら、「今日も生きたね」で十分だ。だって、今日も命を繋いだんだもの。なんやかんやあったかも知れないけれど、それでも私は一日を生き抜いたんだもの。 

 意味をつけたいのは畢竟人間だからなんだ。生まれた意味を知りたがるのは、人間だけだと思う。他にもそんな生き物が居たとして、それは別に構わないけれど、人ほど頭を使いたい生物は中々いないだろうな。

    そういう訳で、力まないで生きていく、とっておきの方法は、生きる意味を考えるために時間を使うよりも、目の前のご飯を美味しく頂く方がいいよっていう事。考える時間の分、眠った方がいいよ。考える代わりに、走った方がいい。考えるのよりも、歌うといいよ。考えてる間に、掃除したら、それだけ自分の周りが綺麗になるよ。人間は、頭もあるけど他にもあるんだから、使う方がいい。それがこの世にいることになるんだと思う。 

 もしそれでも、どうしても生きる意味が知りたい人には、この世で命を全うしたら、「成程!」ってわかるから、安心して生きてたらいいさって、言ってみようかな。
 この地球のどこかで、刻々と移り行く時の中で、生まれて来る命が在る。去り行く命が在る。そうして、同じ時間を生きているのに、全然違う毎日を送っている。誰も同じじゃない。それは凄い奇跡だと思う。

 あなたのことを、全部知るのは難しい。でも、あなたの事を、同じ地球と云う大地の上から応援しています。

どうかあなたに、伝わりますように。

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。