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短編「いつか、雨上がりの空に」

 生まれて此の方、自分と云う生き物を、疑いながら生きている。面倒くさがりで、ご都合主義で、我が儘を隠しながら巧妙に世を渡り歩いて、そのくせうんと憶病である。人の顔色が気になって、背中を向ける勇気もなくて、いつも周りを眺めながら、お人好しを見せようと思って張り切るけれど、本当は布団に潜り込んで出て行く気のしない一日もあるし、人目を憚らずわんわん号泣したい月夜がある。後ろ指をさされても、堂々と主張したい夜が在る。

 私は何の為に生まれて、何処に向かって生きるのか、教えてくれる人の居ない事は、もう分かっていて、それならば自分で見つけるしかないのだけれど、足を向けるのは、億劫である。それどころか、自分の正体も、実の処よく分からない。私は人間だろうか。真実人間だろうか。男か、女か。生物学的に、どっちだ。精神的に、どちらだ。どっちだって、構わない。どうして区別が必要になってしまったんだ。私が、ひねくれているのか。みんなは、知っているのか。私は一体、何者なんだ。

 誰も、愛したことが無い。本当に、心の底から誰かを愛せない。あの子が好きだと聞いた。あの人に告白するよと言われた。此の人と一生生きていく事にしたんですと告げられた。

 そうなんだ。

 いいな、分かる人は。分からない人は、どうしたらいいですか。自分がままならない人は、やっぱり駄目でしょうか。そう、言ってしまおうか。言ってしまったら、楽になるか、いよいよ転がっていくだろうか。いっそのこと、転がる方がいいかも知れない。手足の差配も、脳味噌の活動も必要ないし、勢い任せで、流れに委ねる。

 けれど私は、それだけじゃ詰まらない。分からないくせに、手足を使いたくなる。脳味噌も、掻き回したくなる。苦しいくせに、自分は人だと信じたくなる。自分を人だと、認めて欲しくて堪らないのだ。誰かに見て欲しい、あいつがいるよと振り向いて欲しい。人に愛されてみたい。それはどんなものか知りたい。知りたくって堪らない。

 生まれて此方、私は自分の正体が分からない。分からないままに生きている。どうでもいいと突き放しながら、真実を知る事に執着して、いつまでも知りたがっている。私は自分を疑う。自分の本当を疑う。疑いながらも、やっぱり生きている。痛いのはしんどいし、苦しいのは怖い。だからどうしても生きている。

 悲しい時は、傘を差す。世界が直径一メートルなら、泣いてもいい。怒ってもいい。歌ってもいい。どうせ持ってる機能なら、存分に使ってみようと、とりあえずでも思う。いつまでもそうやって歩いてみる。正体は分からない。でも、歩いてみる。分からないことだらけだけれど、いつか雨が止む。いつか日が射す。そうしたらいつか、私は傘を閉じよう。

 いつかは決まっていないけれど、いつか、空が晴れたら。

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。