人が羨ましくて妬ましくて仕方ないとき
昔から人を羨ましいと思うことが多く、また嫉妬もしやすい。
真ん中っこの私は、いつも人を気にしながら生きてきた。
お兄ちゃんは自分よりも頭が良くて、冷静で友達も多くてで料理もできる頼りがいのある長男。
弟は、勉強もそつなくこなせて、運動もできて何しても可愛がられる末っ子。
一方で、自分は勉強が大してできるわけでもないし、気性が荒くて性格も結構悪いし、友人関係も良好とは言えないし、容姿が良い訳でもない。
兄弟の持っているものが何かと羨ましくて、それと同時にそれを持っていない自分が許せなくって、よく彼らを妬んでしまう。
別に兄弟は何も悪い事をしていないのに、自分が勝手に彼らと比較して落ち込んで、それが態度に出てしまって、八つ当たりをしたりする。
そんな自分が嫌だし、受け入れられない。
妬む対象は兄弟だけではない。仲の良い友達や、身近な人に嫉妬してしまうことも多々ある。
八方美人ゆえに友達に恵まれている子、容姿が可愛くて皆からちやほやされる女の子、性格が良くて誰からも好かれる子、何かとみんなから頼りにされる学級委員タイプのしっかり者の子、絶対に悪口を言わない心が綺麗な子。
このような子たちの周りにいると、劣等感で押しつぶされそうになる。自分がとことん嫌いになって、そうして彼らのことも少しばかりか嫌いになる。
自分は人間が嫌いなんだ。薄情な人だなあ。そう思うとなおさら人が嫌いになって、人と関わりたくなくなる。
でも、この感情を作り出しているのはすべて「比較」するから。
比較するのをやめれば、誰かを妬ましいと思うこともなくなるし、誰かを憎く思うこともない。
ただ、この社会はきっと人々に「比較」習慣にさせて、「劣等感」を植え付けたいのだろう。
学校では、何かと「成績」や「あいさつのできる子」や「素直な子」が評価されたりする。要するに、先生に好かれやすい人が「良い子」なのだ。
そうしたら、「良い子」に当てはまらない子はどう思うだろう。「良い子」と自分を比較して、自分は「良い子」じゃないからダメなんだと責めてしまったらやはり「劣等感」にさいなまれてしまうだろう。
「比較」しても何も良い事がない。そのことはよく分かっている。それでもしてしまう。それでも周りが気になってしまう。
そんな私も、昔よりは「劣等感」を感じることが少なくなった。
人の事ばかり気にしていたのは、自分に集中することが「自己中」で良くないことだという大きな勘違いをしていたからだ。
他人の事を気にせず、自分のことに集中するのが本当に大切なことなのだが、どうしてそう思えなかったのだろう?
それは、日本の「空気を読む」「思いやり」「協調性」などを大事にする風潮が関係していると思う。
周りの事を気に掛けるのは、場合によっては良いことかもしれない。例えば、少し顔色が悪い友達に「大丈夫?」と一言声をかけたり、人の話を否定せずに最後まで聞いてあげたりするのは、気遣いなしではできない。
でも、「妬み」という感情が根底にあっては、どのような気遣いをされても人は心の底から喜べないだろう。
そんなことをするくらいなら、脇目を振らず自分のことだけに集中する方がよっぽど良い。
妬みによって、喧噪や仲たがい、さらにはもっとひどい形で人を傷つけてしまうことだって人間はある。
多くの文学で「妬み」は大きなテーマとなっていることからも、人間に備わる強い感情の一つだということが分かる。
この「妬み」を最小限に抑えるためにも、人と「比較」することはやめた方が良い。
人と「比較」している自分に気づいたら、「これは私を幸せに導かない」「比較しても苦しくなるだけだ」と自分に言い聞かせ、代わりに、「私はこれをしているとき一番楽しい」とか「自分のこういう所は好きだな」という言葉に変えてみて、視点をすべて「私」にすることが大切だ。
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