見出し画像

苦労なく出来ることにこそ価値がある

人様へのセッションを提供している身で、自分のことしかフォーカスしない、自分のことばかりを書くという、業界の人から見たらあり得ない在り方を、敢えてしている。抑圧してきたことにこそ自分の特性があると認識できたからだ。だから、存分に自分語りをしていくことにした。興味のある人にだけ読んで欲しいし、陰口を叩かれようが書くことは止めない。


自分が現在モニターで行なっているグループセッションで、「メタ認知」の視座を持つようお勧めし、自分も一緒にトレーニングをしている。

普通はモニターセッションといえば、クライアントさんのことをモニタリングして、自分が提供するセッションが効果あるかを検証するものだと思うのだが、私の場合はスタンスが違っている。

セッション自体は10年以上やっているが、いまだに新しい挑戦を思いつくものだから、実験する自分をモニタリングする意味でのモニターセッションなのだ。私のモチベーションは研究めいたことにあって、実験、実践して自分の変化を検証するのが好きなのだ。そうすることで、自分の発信が身体性を持ったものになるからだ。

普通は、クライアントのことを考えないだなんて、とんでもない話だろう。そこで躊躇しまくっていたのだが、自分を知って活かすことにコミットし自分に集中した結果、セッションを受けて下さった方から思わぬ効果や発展のフィードバックがあった。意識というのは本当に面白いものだ。

今の私のフェーズは、自分に集中することで人を巻き込み、それぞれ自由に伸びてもらうという段階だ。その先の展開も薄っすら見えてはいるが、今のフェーズに集中して満足したら自然と次に行くことがわかっている。

今の私は、人は各々の中に答えを持っているから(昨日の記事参照)各々が力を発揮することにこの人生のゲームがあって、セラピストのエゴイスティックなエネルギーで干渉しないのがいい、というところにいる。わざわざ何かをする必要がないのだ。

「何もしない」というのは、「何も”特別なこと”をしない」という意味。自分にとって苦なく出来てしまうことは、何かしたような気分にならない。しかし、苦なく出来てしまうことは価値が無いように感じられてしまう。「苦労したものにこそ価値がある」という”人間”による刷り込みのおかげで。

「苦労は買ってでもしろ」などという昔の言葉があるが、普通に生きているだけで生きづらさに溢れるこの時代、だれがお金を出して苦労なんか買おうと思うだろうか。

興味があって、好きで楽しいものは、興味の無い誰かにとっては大変なことでも、本人はそれが楽しいと思っている。
興味があってそれなりの時間やエネルギーを費やしていても苦労だとは思わないものだから、

「苦労したものに価値がある」
「頑張ることが正義」
「働かざる者食うべからず」

という価値観が刷り込まれていると、自分のやっていることに価値がないように感じてしまうのだ。

こういった価値観などのことについて、今後色々書いて行こうと思う。

私は自分が興味のあるものを提供することで、その時にタイミングの合う人の役に立てることを身体で納得してきている。自分の育ち直りに興味があって、グループセッションでそれをシェアし、次のセッションまでにまた準備を進めるといったことが今は楽しくて仕方がない。

ある程度すると感覚が掴めて飽きてまた新しい挑戦に移行するので、恐らくあと2~3ヶ月後にはまた違うことを始めるのだろう。小さな成長の積み重ねを共有できる方々と今を楽しみたいと思っている。

自分の人生を、あと10年と仮に区切ったら、「今」が愛おしく感じるようになった。卒業式が近づくと、一日一日が貴重に思えるあの感覚。自分の時間も、繋がれる人たちとの時間も、大事にしていきたい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?