人生の探求、盲点ばっかり。

人間は探求がやめられなくて、人生をどうにかしたい、改善したいと思えば思うほど、本やらセラピーやら誰かのブログやセミナーやらと、外側に答え(正解)を求めようとする。

「答えは自分の中にある」という言葉を知っていても、充分にそのような体験記憶がなければ、その発想の回路がないのは当然のこと。

なんで自分の中に全ての答えがあるんだろう?

なんで自分の中にある答えが見れないんだろう?

それについて、書いて行きたいと思う。

なぜ自分の中に答えがあると言えるのか・なぜ見えないのか

悩みの答えが知りたい、見たいものというのは、悩みの源泉がなんだかわからなくなくなるように、過去の自分の体験を無意識に閉じ込めているから。

過去に自分が体験した情動記憶が、怖い、不快、不安などの、身体未発達の生命を脅かすに近いものだった場合、心理学的に言うところの「防衛機制」の機能が働いて、無意識的に不安を回避し軽減しようとする。これは健康を保つための機能。不安や恐怖のホルモンを出し続けて枯渇することのないように、生命を守る手段。

そういう人間のメカニズムがあって、無意識に閉じ込めているので「なんでだかわからないけど、モヤモヤするけど、わからない」何かを、自分の中にあるはずがない、そもそもあるなんて発想がないから外側に探し求めることになる。ここで気づく方はいるかと思うが、内にあるものを閉じ込めているのだから、外側に答えはない。

外側にある情報と照らし合わせて、自分を知っていき、内側の何かを気づいていこうとすることで見えてくるものはある。その時にはもちろん、閉じ込めた不快箱のフタを開けるようなものだから、怖さや不快な感情もあるだろう。

ただし、無意識に閉じ込めるような原体験にあった当時は、多くの場合、身体が未発達の幼少期であることがほとんど。養育者の世話がないと生きていけない頃の話だ。

今この文章を読める人は、たいてい身体的には大人になっていて、養育者の世話がなくてもご飯やトイレができる人がほどんどだと思う。あの頃の自分とは違うのだ。

そもそも人生の探求をしようと思う人は、人生の何かに疑問や不安やフラストレーションがあるだろう。これを書いている私も、もれなくそうである。だからこそ、こんな世界に興味があって探求してきたのだ。

自分の眼の前に写し出される現実に、恐怖、不安、怒り、などのストレスを感じた時、自分の中では閉じ込めてしまって見ることができないものを、舞台裏のネタバレがわかってくると、自分がどんな思い込みの井戸の中で生きてきたのかアホらしくなってくる。

何か現実に出来事がないと狂った思い込みの痛みに気づけないし、痛みの現実を感じること自体を麻痺させると、もっと出来事がエスカレートしてくる。なんとか生き延びても、同じ問題を延々とループする。

あらゆる出来事が、自分の中にある答えのサイン。

…ということを、実際に検証中。
自分の中にあった盲点を、殴り書きの日記のように記録して行こうと思います。

あくまでの私個人のパターンだけれども、この記事がふと目に止まった誰かが「自分と似ている」と感じた時に、ご自身の内側との照合が起こるかもしれない。私の人生があと10年で終わると仮設定した時に、自分の取り組んできたものが、誰かの「楽」のきっかけになれば嬉しいと思った。

私は自分の人生をやりきって、重い念を地球に残さず成仏したいのだ。

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