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【小説】ライオンと女の子

作者:高円寺猫(空色チューリップ)


 
彼はライオン。

地平線の彼方まで続くような広い広い草地に彼は住んでいました。
 
彼は美しい獣。

陽の光を浴びてきらきらと輝くもじゃもじゃのたてがみ。エメラルドのように緑色に燃える瞳。たくましく引き締まった体を覆う滑らかな毛皮はきめの細かいビロードのよう。
 
彼は百獣の王。

草地に住む誰もが彼を敬い、恐れます。彼が歩くと動物たちはみな道を譲りました。
 
しかし、彼はいつもどこか寂しそうな顔をしていました。
 
涼しい木陰にある柔らかい寝床も、澄んだ水が湧き出る泉も、そして彼が望むならいつでも捕まえることのできる獲物も。その草地には何でもあります。
 
でも、彼の心にはいつもぽっかりと穴が開いていました。時々その穴がしくしくと痛んで、それが彼を悲しくさせました。
 
「もしかすると僕は病気なのかもしれない」
 
星のない静かな夜、寝床にうずくまりながら、彼は時々そんなことを考えました。
 
***
 
よく晴れたある日のこと。ライオンが歩いていると草地の端に一軒の家があるのを見つけました。彼が初めて見る家でした。
 
苔のように濃い緑色の屋根がある、木で作られた小さな家でした。家の周りにはよく手入れされた鉢植えがいくつも並んでいて、赤や黄色や青、色とりどりの花が陽の光を受けてきらきらと輝いています。
 
ライオンは近づいて行ってその花の匂いを少し嗅ぎ、それから壁にはまった窓ガラスを通して部屋の中をそっと覗きました。
 
小さなアトリエのような部屋でした。部屋の中の机の上には鮮やかな色の絵具が載ったままのパレットや絵筆が置かれていました。そして、壁にはその絵筆で描かれたものでしょう、淡いタッチの絵が何枚も飾られていました。
 
部屋の中には一人の女の子がいました。彼女は部屋の隅にあるピアノの前に座っていました。窓の外にいるライオンからは、じっと目を閉じている彼女の横顔が見えました。ライオンは女の子を見るのは初めてでした。
 
しばらくすると、女の子は鍵盤の上に指を滑らせるようにピアノを弾き始めました。彼女の指が白い鍵盤に着地して、その初めの一音が鳴ったとき、ライオンのたてがみの奥にある耳がぴくりと動きました。
 
女の子の指は、最初は知らない道を探し歩くようにゆっくりと、しかし、やがて満月の下で輝く草地の上を踊るように白と黒の鍵盤の上を行き来し始めました。ライオンは彼女のしなやかな指の動きと、それが奏でる音色に釘付けになりました。
 
女の子は一体どれくらいの時間ピアノを弾いていたのでしょうか。それはあっという間の出来事のようでもあり、真昼の太陽が沈み始めるくらい長い時間のようでもありました。女の子の指が鍵盤から離れ、アトリエの中に浮かんだ音の余韻がどこかに吸い込まれるように消えてしまっても、しばらくライオンは体を動かすことができませんでした。
 
女の子はライオンが見ていることに気付かずにやがて部屋を出て行きました。そして、ようやくライオンも窓から離れて草地に向かって歩き出すことができました。
 
草地を歩きながら、ライオンは気付きました。女の子がピアノを弾くのを聴いているとき、自分の胸に開いていたはずの穴が消えて無くなっていたことに。
 
***
 
初めて女の子に会った日から、ライオンは一日に何度となく彼女の家を訪れるようになりました。
 
窓から覗くと女の子はいつも色々なことをしていました。
 
あるときは絵筆を持って手や顔を絵具で汚しながら夢中で絵を描いていました。
 
あるときは机の上のノートに向かってペンを走らせたり、開いた本を食い入るように覗き込んだりしていました。
 
またあるときは部屋の真ん中に立って心地よく響く声で歌を歌っていました。
 
そして、またあるときは初めてライオンが彼女を見た日のようにピアノを弾いていました。
 
彼女はライオンにとって今まで見てきたもの、聞いてきたものとは全然違っていました。彼女が歌う歌はライオンの吠え声とは違います。彼女の描く絵の中の世界はライオンには触れることができません。そして、彼女の奏でるピアノはライオンのお腹を満たしてはくれません。
 
それでも、ライオンは毎日、女の子のところに行くのをやめられませんでした。
 
「もしかすると僕は病気なのかもしれない」
 
きらきらと輝く星空を見上げながら、彼は時々そんなことを考えました。
 
***
 
そんな生活を続けていたある日のこと、ライオンは突然妙なことを始めました。
 
彼は獲物を捕まえて食べるのをやめたのです。
 
馬鹿げていると思うでしょう?
 
本当にそのとおりです。だって彼はライオンなんですから。
 
でも、ライオンは大真面目でした。彼が考えていたのは女の子のことです。
 
ライオンは女の子のことが好きになってしまったのです。彼女の奏でるピアノの音色、歌声、絵筆をキャンバスに走らせる真剣な表情。そういったもの一つ一つをライオンは愛しいと思うようになりました。それは彼にとって初めての気持ちでした。
 
しかし、ライオンは女の子の前に出て行くことができませんでした。
 
彼はこわかったのです。彼はライオンである自分が女の子を食べてしまうのではないかと思いました。
 
だから彼はある日からライオンであることをやめようと決めました。
 
獲物を捕まえて食べるかわりに、彼は他の動物たちのように草地に生えている青々とした草を口にしてみました。それは苦くて、青臭くて、ライオンにはとても食べられたものではありません。
 
木になっている赤や緑や黄色の果物や木の実も試してみました。苦労して木登りをしてやっと手に入れたそれは、しかし甘ったるくて彼には飲み込むことさえできませんでした。
 
2、3日もするとライオンのお腹の中は空っぽになりました。お腹が空いて目が回りそうになります。それでも彼は獲物を捕まえようとはしませんでした。
 
泉の水で空っぽの胃袋を膨らませて、時々女の子の家に出かけました。空腹でふらふらになりながら聴く彼女のピアノの音色だけが、ほんのひと時だけライオンにとって慰めでした。
 
それは満腹のときに聴くよりも何倍もライオンの心を震わせました。
 
***
 
ある日、草地の木陰で横たわっているライオンのところに一匹のウサギがやってきました。
 
真っ白な毛皮にくりくりとした利発そうな目が愛らしいウサギです。
 
ウサギは寝そべったまま動かないライオンをしばらく遠巻きに眺めていましたが、やがて好奇心に満ちた顔で近づいてくると、こう尋ねました。
 
「あなたライオンのくせに何やってるの?」
 
ウサギの声を聞いて、ライオンは気だるそうにゆっくりと目を開けました。ウサギはその目を覗き込むようにして続けます。
 
「みんなあなたのこと噂してるわよ。ライオンなのに獲物を捕まえようとしないなんて馬鹿みたいだと思わない? あなたには立派な牙も、鋭い爪も、力強い手足もあるじゃない。ライオンならライオンらしくしたら?」
 
ライオンが自分に襲いかかってこないと知って、ウサギは面白がっているようでした。
 
「君には関係ないことだろ。僕は食べたくないから食べないんだ」
 
ライオンの言葉を聞いて、ウサギの顔に悪戯っぽい笑みが浮かびました。
 
「ふーん、食べたくないの? じゃあ、私のことも食べないのね。私、あなたになら食べられてもいいって思ってるんだけどな。すっかり痩せちゃったけど、あなたって結構ハンサムだし、どうせ食べられるならハイエナなんかよりもライオンに食べられたいわ。ほら、食べてもいいのよ。そのかわり痛くしないでね」
 
冗談めかした口調でしたが、どうやらウサギは本気でライオンに食べられてもいいと思っているようでした。
 
ライオンは改めてウサギの姿を見つめました。白く小柄なウサギの体はとても美味しそうでした。
 
しかし、ライオンは首を振りました。
 
「ありがとう。でも結構だよ。ほら、もう行って」
 
「なんだ、つまんないの。でも気が変わったらいつでも来てね」
 
ウサギはそう言うと長い耳を揺らしながらライオンのもとを去っていきました。
 
***
 
次の日、ライオンのところに一頭のヒツジがやってきました。
 
体は豊かな羊毛に覆われていて、温和で優しそうな表情をしたヒツジです。
 
空腹で苦しそうな息をしながら木陰に横たわっているライオンのすぐ近くまで、ヒツジはゆっくりと歩いてくると口を開きました。
 
「つらそうね」
 
ヒツジの声には優しさと同情がこもっていました。
 
「あなたはどうしてそんなふうに自分を苦しめているのかしら。あなたは他の動物たちがうらやむものを持っているでしょう? あなたは強くて、勇敢で、望めば何だって手に入れることができるわ。あなたがライオンらしく生きようとしさえすればね」
 
穏やかなヒツジの声を聞きながら、しかし、ライオンは首を振ります。
 
「僕は僕のしたいようにしてるんだよ。食べないって自分で決めたんだ」
 
「あなたがそんなふうに苦しんでいるのを見るのはつらいわ。あなたは立派な王様にだってなれるのに、それを捨ててやせ細って死んでいくのを見ているなんて。ねぇ、私のことを食べてもいいわよ。私を食べてあなたが元気になるなら食べられてもいい。そのかわり、私が眠っている間に食べてね」
 
ヒツジの言葉には心からの優しさがこもっていました。
 
ライオンはヒツジを見つめました。そして、羊毛の奥に包まれたその肉感的な体のことを思いました。
 
しかし、やがてライオンは首を振りました。
 
「ありがとう。君の気持ちだけもらっておくよ。ほら、もう行って」
 
「そう。わかった。でも気が変わったらいつでも言って」
 
ヒツジが去っていくのをライオンは目を閉じたまま見送りました。
 
***
 
次の日にライオンの前に姿を現したのは一羽のクジャクでした。
 
宝石のように輝く虹色の羽で着飾ったとても美しいクジャクです。
 
「まだやせ我慢してるの?」

クジャクはツンと澄ました表情でライオンを見下ろしながら言いました。ライオンが何も答えないのを見ると、クジャクは言葉を続けます。
 
「あなたのしていることは自分の価値を台無しにする行為だわ。ライオンが獲物を捕らないなんて、美しい鳥が自分の羽をむしってしまうようなもの。何のつもりか知らないけど、あなたがしていることはちっとも立派なことなんかじゃない」
 
ライオンはすっかり衰弱し切っていました。クジャクの言葉に長い時間をかけてようやく瞼を開けると、こう答えます。
 
「僕は立派になろうとなんかしてない。食べないのが『僕らしい』って思うから食べないんだ」
 
クジャクはライオンの言葉をじっと聞いていましたが、やがて口を開きました。その声にはそれまでとは違う親密な響きがありました。
 
「あなたのこと、私はずっと見ていた。ちゃんとしたライオンだった頃のあなたはとても素敵だった。美しくて、有能で、自信に満ちていた。でも、あなたは変わってしまった。私にはそれがたまらなく悲しいの。もし私を食べてくれるなら、私は喜んでこの体を差し出すわ。私をきれいなまま食べてくれるなら。そして、それであなたがまたもとの立派なライオンに戻ってくれるなら」
 
ライオンはクジャクの言葉に身悶えしました。彼の空腹は耐え難いものとなって、彼を動かし、クジャクを食べさせようとして彼の体を内側から引き裂きました。
 
とても長い時間が経ちました。
 
しかし、結局ライオンは首を振りました。
 
「ありがとう。でもやめておくよ。ほら、もう行って」
 
ライオンの言葉にクジャクはまたもとの取り澄ました様子に戻って言いました。
 
「そう。後悔すると思うけど」
 
クジャクが色鮮やかな尾羽を振りながら去っていくのをライオンは見送り、そして目を閉じました。
 
***
 
その数日後、ライオンは女の子の家に向かいました。
 
彼の飢えはもう限界を超えていました。頬は痩せこけ、力強かった手足は枯れ枝のように細くなっていました。艶やかなビロードのようだった毛皮はあばら骨の浮いたやせ細った体にぴったりと張り付いています。
 
「もしかすると僕は死ぬのかもしれない」
 
ライオンはそう思いました。しかし、不思議と後悔や恐怖はありません。
 
ただ、最後に女の子の姿を一目見たいと思いました。そして、できれば彼女の弾くピアノをもう一度聴きたい。そう考えてライオンは女の子の家に向かったのです。
 
女の子の家は相変わらずでした。ライオンは色とりどりの花に囲まれた家の窓から彼女のアトリエを覗きました。
 
初めて姿を見た日と同じように、女の子はピアノの前に座っていました。
 
ライオンは窓越しに女の子の横顔を見つめました。
 
やがて、女の子がピアノを弾き始めました。鍵盤の上を彼女の指が踊ります。彼女の奏でる音楽がライオンの耳を心地よく撫でていきます。
 
その音色はライオンの空腹も、苦しみも、孤独も、全てを消し去ってしまいました。
 
ライオンはもう百獣の王ではありません。いや、獣でもなければ、ライオンでさえありません。
 
彼はそのとき、ようやく彼自身になれたのです。
 
ライオンは彼女のピアノを聴きながら幸せそうに目を閉じました。
 
***
 
どれほどの時間が経ったのでしょうか。
 
ライオンが目を開けると、自分の顔を覗き込む顔がありました。
 
あの女の子でした。
 
ライオンは彼女の弾くピアノを聴きながら窓の外で気を失ってしまっていたのです。そして、気絶したライオンを外に出てきた女の子が見つけたのでした。
 
「こんなところで何をしているの?」
 
女の子はライオンに呼びかけました。その顔には心底不思議そうな表情が浮かんでいました。ライオンが目の前にいるというのに、女の子は少しもこわがる様子がありません。
 
「君のピアノを聴いていた。ずっと」
 
ライオンはやっと口を開くとそう言いました。ライオンはこのとき初めて女の子と言葉を交わしました。
 
「私のピアノを?」
 
女の子はびっくりした様子で聴き返します。ライオンは頷きました。
 
「大変。あなたすごく痩せて苦しそう。もしかして病気なの?」
 
女の子に尋ねられてライオンは首を振りました。
 
「ううん、僕は病気なんかじゃないよ。ただ、お腹が空いてるだけなんだ」
 
そう答えながらライオンは急にこわくなりました。
 
「そんなにお腹が空いているなら私を食べていいよ」
 
女の子がそう言いだすんじゃないかと思ったのです。
 
でも、女の子は全然別のことを言いました。
 
「それなら私が美味しいご馳走を作ってあげる」
 
女の子はピアノが上手いだけではなく、賢く、現実的で、そして料理も上手だったのです。
 
そのしばらく後、ライオンは女の子と一緒に家の中で食卓を囲んでいました。食卓には、生ハムを使ったオードブルや、シチューや、ハンバーグが並んでいました。そして、ライオンの口には合いませんが、サラダやフルーツの盛り合わせも。
 
ライオンは女の子が作ってくれたご馳走をお腹いっぱいになるまで食べました。食べながらライオンは女の子と色々なおしゃべりをしました。ライオンの下手な冗談に女の子は笑ってくれました。
 
そして、食事の後はアトリエの床に寝そべり、女の子が自分ひとりのために奏でてくれるピアノに耳を澄ませました。
 
その音色は祝福の金色の雨のように優しくライオンに降り注ぎ、そしてそれを聴きながら、やがてライオンは深い眠りに落ちてしまうのでした。
 
 
END


ピアノ即興「ライオンと女の子」