月ちゃん

こんにちは!看護師の月と申します。ここでは繊細な気質を持っているが故に生きづらさを感じている方々が、少しでも気持ちが楽になるような私なりの人間関係の考え方や乗り越え方を発信していきたいと思います。

月ちゃん

こんにちは!看護師の月と申します。ここでは繊細な気質を持っているが故に生きづらさを感じている方々が、少しでも気持ちが楽になるような私なりの人間関係の考え方や乗り越え方を発信していきたいと思います。

最近の記事

人間不信②

それから、捜査が始まりました。 当時彼女は、甲状腺の治療の為、入院中。 刑事さんのお話では今取り調べは出来ない状態なので、もう少し容態が落ち着いてから捜査に入るということになりました。 それから1カ月くらい経った頃でしょうか?やっと取り調べが出来る状態になったため、○月○日に取り調べしますと刑事さんから連絡が入った。 やはり彼女がやったと。。 理由は『私なら許してくれると思ったから…』 当時は複雑な気持ちだった。でも悲しかったかなあ(涙)未だ自分の気持ちがわからない

    • 人間不信①

      仕事にもようやく慣れて来た頃の話。 仕事とは全く関係ない世間知らずな私のまたちょっと辛いお話しです(笑) 高校時代から凄く仲のいいお友達がいたのですが、その子とは職場は別々でしたが、看護学校も一緒で良く仕事がお休みの時は、お互いの家に遊びに行ったりする程の仲でした。 そのお友達は誰とでも分け隔てなくコミュニケーションが取れる人。 お話してるとめちゃくちゃ面白くて話しやすく、唯一気を使わないでいれるお友達でした。 ある日、そう言えば通帳記帳してなかったなとあと、1年く

      • 大失恋②

        それから付き合って1年半くらい経った頃だったと思います。 紹介してくれた高校の時のお友達が長く付き合っていた彼と別れたと。 その彼は私のお付き合いしていた方とは高校時代からの友人。 私のお友達はとても落ち込んでいて、私の彼に良く電話で泣きながら相談をするようになりました。私には一切内容は教えてくれず(笑) 最初は仕方ないのかなあと思いそのまま放っておいたのですが、しばらくすると私の彼は友人の彼女だったということもあり、お友達を励ます為に2人で頻繁にドライブに行くようにな

        • 大失恋①

          お仕事の話ばかりもつまらないので、 今回は少し私の若かりし頃の恋愛話を。 興味ないと思いますが(笑) 看護学校の時から2年程お付き合いした方のお話です。 私が19歳の時でした。高校の時のお友達から「紹介したい人がいるけどどう?」と話を持ちかけられました。 その頃は好きな人もいなかったので会ってみようかなあと思い、軽い感じで「じゃあ」ということになりました。 その方は同い年で、某〇〇自動車の営業マンでした。 優しくてまじめな方で実家は飲食店を経営されていました。確か

          戦場

          ということでブラック続きで… 休みも有給なんてあったかなあ?しかも4週6休だったと思います。 今思えば良く働いてたと思うし、今そんな求人見ても絶対就職しないと思います(笑) 看護師という仕事は人の命を預かる仕事。確かに身体はきつくブラックではあったけど、人生においてとても貴重な経験だったと思います。 処置をして元気になられる患者さんもたくさんいました。回復されて一般病棟に転棟される患者さんの笑顔を見ると嬉しくなります。 その反面、状態が改善せず亡くなって逝かれる患者

          試練

          時の流れは無情に過ぎて行くもので。。 とうとう異動の日がやってきました。 はあ~嫌だな...そんな思いしかありませんでした(笑) でもやるしかないよね~。意を決して初出勤です。 看護師さんたちはみなさんいい感じ。 しかし集中治療室というだけあって周りを見渡せば呼吸器やモニターばかりで色んな音が色んな所から聞こえてくる。 家に帰っても呼吸器のアラームやモニターのアラーム音が幻聴のように聞こえてきます(笑) 患者さんは挿管され誰も喋らない。みんな寝たきりで頭や身体に挿

          辞令

          脳神経外科一般病棟に勤務してあっという間に半年経った頃、確かあれはお昼過ぎだったと思います 師長からナースステーションにみんな集まってと呼び出しが… (師長)異動の辞令が出ました 誰だろう。ドキドキ。 きっと私じゃないよねー。 大丈夫大丈夫… 辞令を見ると、お察しのとおり、2名の異動者の中に私の名前が載っておりました。ガーン。しかも… 異動先は脳神経外科のICU ウソでしょ。。。 一般病棟でさえ、ポンコツな看護師だった私が何でICU?私何かした?ここで使い物にな

          後悔

          こうして無事に准看護師資格を取得。 このまま、あと3年、医師会の専門学校で正看護師資格取得の勉強をしながら働くという選択肢もありましたが、とにかく勉強嫌いだった私。 夕方まで働いて夜間に勉強するのは絶対に出来ないと思い、何とも意思の弱い私ですが、このまま准看護師として働くことを決めました。 資格取得後、私は同病院の脳神経外科病棟に准看護師として配属となりました。まず働き始めて感じたこと。 何て仕事を選んだんだ(汗)・・・ 当然ですが何もかもが初めての経験。 まず一

          准看護師合格

          私は高校を卒業後、病院で仕事をしながら准看護師の専門学校へ行く事を決めました。 学校は2年間。その間就職先の病院は少し大きめの総合病院だったので看護助手として3か月ごとに色んな科をまわりました。 仕事を覚えた頃に次の科へ変わる為、今思えばなかなか大変だったと思いますが、一生懸命だったのかあまり良く覚えていません。 ただ一つだけ強烈に覚えているのは、救急外来に配属になったときの事。 足の開放骨折の方が運ばれてきた際、患部の状態が凄すぎて倒れそうになったのと、指をポッキリ

          准看護師合格

          看護師の道

          こういう状態になったのは3年の時でしたが、高校も辛いだけではなく、30年くらい続いているお友達も出来ましたし、恋愛も出来て楽しい思い出もありましたよ(笑) 高校1年ではパーマをかけて反省文を書かされたり、2年では午後から授業をさぼってお友達の家に遊びに行ったり、祖母が聞いたら泣くかもしれない不良的なこともやりました(笑) 病気の方も自然治癒でやっと落ち着いてきた頃、今後の進路を真剣に考えなくてはならない時期がやってきました。 私は何となく中学生の頃からだったのですが、公

          看護師の道

          双極性障害

          そんな状態でも祖母が怖くて学校には1日も休まず通いました。(笑) 友達は私の異変に気づいた様で心配して声をかけてくれるけれど笑顔を作れない。喋れない。また落ち込む。 死にたいとまで思っていたのにその後、今度は死ぬ気も起らない無気力状態にまで落ちました。底まで落ちても学校に行った私に自分でビックリですが、こんな状態が3週間くらい続きました。 それから気分がやっと上がってきたなあと思ったら、今度は一日中喋り倒す(笑)明るく面白く喋れる自分が嬉しくて楽しくて… まあ死にたい

          双極性障害

          コミュ障

          それ以来、私は母に言われた言葉がトラウマになり、人と話す時は沈黙になるのが物凄い恐怖でした(笑) 因みに今は沈黙も克服してますよ(笑) 元々極度の人見知りだった私。 唯一保育園の頃からの幼馴染みの子だけは何でも話せる仲でした。 中学校まではいつも一緒に学校に通ったり遊んだりしていましたが、高校から違う学校に進学することになり、それからは会う事もしばらくなくなりました。 高校生になりホントは気乗りしないのに無理矢理女子8人グループの中に所属しておりました(笑) 休み

          コミュ障

          母の一言

          そんなこんなで私は高校を卒業し、泣く泣く18年間育ててもらった実家を離れ2DKの古いアパートに母と暮らす事になりました。 この頃実は、既に私は母が嫌いだったんです。 物心ついた頃から祖父母やおじおばと喧嘩する光景を何度も見て、私も幼いながらに母が喧嘩の火種であることは何となくわかっていました。だんだんと母の事が嫌いになって行ったのです。 小学校低学年の頃は、母が授業参観に来ると友達から『あればあちゃん?』と言われるのがとても嫌で母に『スカート履いてきて』『来ないで』なん

          母の一言

          私の生い立ち⑤

          それから私は市立の小学校、中学校、県立の高校へ何不自由なく行かせてもらいました。 祖母は学校を休むことに厳しくどんなに具合が悪くても絶対登校させる人でした。結局登校して具合が悪くなり麻疹だったということも。 私は勉強に関しては正直あまり出来る方ではありませんでした。運動は球技は好きでしたがその他はまるで駄目。小学校のかけっこはいつもビリでした。唯一音楽と図工だけは大好きで出来る方だったと思います。 ピアノ、役に立ってますね。 中学校ではなるべく楽な部活に入りたいという

          私の生い立ち⑤

          私の生い立ち④

          私は月に一度家に帰ってくる母を楽しみに待ち、帰ってきた日にはボール遊びや公園に行ったりと遊んでくれたのを覚えています ただ前にもお話した通り母は気分の浮き沈みが激しい性格。帰ってきた日は祖母と大喧嘩をしていたことも多々あり嫌な思いをした記憶もあります。  極度の人見知りだった私は年長の歳で保育園に預けられました。 家の生活に慣れていた私は祖母が運転する自転車の後ろに乗せられ保育園に初登園した日に友達の輪に入れずトイレで一人泣いていたのを今でも覚えています(笑) まあそ

          私の生い立ち④

          私の生い立ち③

          ここで簡単な家族紹介を 祖父は昔はとても厳格で恐い存在だったそうですが、年老いてからはいつもニコニコしていて口数が少なく穏やかな人でした。相撲が大好きでいつも拍手しながらTVを視ていた記憶があります。 祖母は気が強くサバサバした性格で、しつけなどにはとても厳しい人でした。男勝りな所がありプロレス観戦やパチンコが大好きでした。また働き者で家では何かしら内職をしていて私も手伝ったのを覚えています。厳しかったけど愛情たっぷりな母親的存在でした。 叔父は明るい性格で良く私に色々

          私の生い立ち③