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【ミステリ小説】 『ソウルカラーの葬送』第一部 ①



 第一部

 一、

 高田馬場駅を出て大通り沿いを早稲田方面に十分ほど歩いて行くと、目指す雑居ビルが右手に見えてくる。無味乾燥としたコンクリート造りの飾り気のない建物だ。
 そのビルの二階に、彼は事務所を構えていた。八月のジリジリと焼け付くような日差しを浴び、地獄の責苦のような熱風を肺に吸い込みながら、私はその日、彼の事務所へと続く階段の前に立った。
 
 ──『☝︎株式会社 皇与一』

 右の壁に掲げられた樹脂製のプレートには黒文字でくっきりとそうプリントされている。それは「すめらぎ、よいち」と読む。姓が皇、名は与一。なんだか漫画の登場人物のような現実離れした名だが、本人曰く「正真正銘、まごうことなき本名」なのだそうだ。彼は自らの姓名を会社の名前にしているという、風変わりな男だった。
 私は自分がこれから対面する男の容姿挙動を頭に思い描き、思わず浮かんでしまった笑みを慌てて消し去ってから真面目腐った顔で階段を登って行った。
 心中には、ある鮮烈な期待をもって。
 今回が三度目。『三度目の正直』という言葉を私は信じている。
 階下のプレートと同じようにカッティング文字が貼られたガラス扉。その丸い大きな取手を引いて、私は事務所の奥に向かって声をかけた。パーテーションの先にいるであろう、主に向けて。
「こんにちは、皇さん。棚戸たなこです」

 
 私が彼──皇と出会ったのは三ヶ月ほど前、場所は立川にある小さなバーだった。学生時代の恩師の紹介があって、定年後の道楽でバイオリン教室を開いているという男性Y氏の元に通い始めた日のことだ。
 初回のレッスンの後、その Y氏に誘われて食事に出かけた。どうやら彼の本当の目的は、行きつけのバーのマスターに久しぶりにできた自分の若い弟子をお披露目したかったようだ。そもそもアルコールにあまり強い方ではないようで、Y氏はグラスビール一杯で容易に気をよくして私を繰り返しマスターに紹介した。嬉しそうに「この子は筋が良いんだ」とか「やっぱり若いって良いね。物覚えが実に早い」などと手放しで褒めそやすものだから、私は段々とその状況に辟易してきて、笑顔が引き攣ってくるのを感じていた。初回のたどたどしい私の手振りから、どうしてこうも褒められるのか。この講師は生徒を褒めて伸ばすタイプなのか、それとも私が若くて自分の子供のように思えるからか(ちなみに彼は未婚の独り身だった)、何かしらの秘めた下心でもあるのか。いや、それはそれで大いに問題があるのだが・・・・・・。
 用心しているからか一向に酔えず、本気で帰りたいと思い始めた頃だった。
 カランコロンと店の扉に備え付けられた鐘がくぐもった音を発した。カウンター席に座っていた私は腰を捻って入口に視線を向けた。
 ブラックの上下のスーツにダークレッドのネクタイを締めた男がひとり、こちらを向いて立っていた。スラックスのポケットに右手を入れて、キザっぽくポーズを決めている。スタイルの良さや長身なのも相まって、それが様になっていた。
 年齢は四十代半ばといったところか。頭髪は黒々としていて、整髪剤できっちりとオールバックに固められている。対照的に肌は青白く、余り健康そうには見えない。けれど面長の整った顔立ちは、私に歌舞伎役者をイメージさせた。もちろん女形である。
 それから男は私たちから離れたところのカウンター席に座り、左手を軽く上げてマスターを呼んだ。ふと見れば隣のY氏もジッとその男のことを見ている。Y氏も知らない男のようだった。
 男がマスターに二言三言何かを告げると、途端に二人の間に微かな笑いが起きた。よほど気心の知れた仲なのか、マスターが男の肩を軽く叩いた。「お疲れさん、無事で何より」と男を労うような言葉が聞こえた。
 やがてシェイカーの小気味良い音が店中に響き渡り、鮮やかなブルーのカクテルが男の前に差し出された。
「ねぇ、マスター。彼も常連さん?僕見たことないけど」
 すかさずY氏が探りを入れた。
「いやぁ、Yさんほどのお得意様はそうそういませんよ。なに、彼はわたしの幼馴染でして。忘れた頃にフラーっとこんなふうに現れるんですよ」
 私たちが向ける好奇の視線に気が付いたのか、男がカクテルを左手に掲げてこちらに会釈をした。ふと見れば、ポケットに入れられていた右手はカウンターに軽く添えられていた。真っ白い手袋を嵌めている。薄暗い照明の店内で、それは異様に目立った。


「今晩は。マスターのお友達だとか。僕はこのお店がお気に入りでね、週末になると出入りさせてもらっているんですよ。Yと言います。それから、こっちは今日から僕の可愛いお弟子さんになってくれた──」
 まさか自分も紹介されるとは思ってもいなかった私は、多少慌てながら自らで名乗った。
「棚戸です」
 続けて皇と名乗ったその男は私を興味津々といった様子で眺めてから、
「珍しい苗字だね。俺の皇と良い勝負だ。それで、一体全体何の愛弟子なんですか?」
と最後は私たちふたりを交互に見て尋ねた。
「あぁ、僕ね、バイオリンを教えているんですよ。そのお弟子にね、なってくれたの、この子」
 Y氏のその発言を聞いた途端、皇の目が爛々と輝いたのを私は見逃さなかった。
「バイオリンですって?おぉ、素晴らしい!そしてその素晴らしく輝かしい音楽の道をまさに今日という日に歩み始めたあなたはもっと素晴らしいじゃあないか!ねぇ、Yさん。そうだ、それじゃあお祝いをしなければなりませんね。おい、柏木君。お二人に君のとっておきのカクテルを振る舞って差し上げなさい。今日は俺が支払うよ。なに、遠慮は入りませんよ、Yさん。ちょっとした臨時収入もあったのだから、心配なさいますな。やぁ、良い日に巡り会えましたねぇ、俺たち。そうかそうか、音楽の道にねぇ。ねぇあなた。棚戸君でしたか。棚戸君!君に乾杯!」
 私が皇の変貌ぶりに面食らってしまったのも無理はないことだろう。女形をはれるような二枚目歌舞伎俳優が、その実「音楽」に目のない強烈なオタクに成り代わってしまったのだから。
 Y氏と皇はその後すっかり意気投合してしまい、古今東西、和洋入り乱れての「音楽」談義に華を咲かせていた。そんな彼らに全くついて行けないでいた私は、見かねたマスターが時折振ってくれる当たり障りのない「常識的な」話題についてポツリポツリと応答して、お茶ならぬカクテルを濁して耐えていた。
 仕舞いには肩を組み始めた男ふたりを冷めた目で眺める私。さぞや妙な絵面であったことだろう。
 火を吹きそうなほどに真っ赤な顔をしたY氏が、そこでふと冷静になったように真顔で皇に尋ねた。
「ところで皇同志。貴方ほど音楽に精通している人間に今まで出会ったこともなかったけど、貴方もちろん何か楽器は演奏されるんでしょ?」
 それを聞いた皇は一瞬凍りついたように固まって、咄嗟に真っ白な手袋に包まれた右手を見て、そうしてまた何事もなかったかのように満面の笑みを浮かべてY氏に向き直って言った。
「いいえ、やりませんよ」
「えっ!そ、それじゃあその音楽の膨大な知識は何のために──。あ!あぁわかった、皇同志。貴方きっと教授だ!そうでしょ?若者に知識を伝授している、音楽の伝道師だ!皇教授!皇博士!」
 再び一人高まってしまった老人にバシバシと肩を叩かれながら、けれどそれとは対照的に無表情な能面へと一気に急降下していく皇。これはどういう事かと見守っている私の耳に、とんでもない一言が飛び込んできた。
「音楽の道はだいぶ昔に挫折しました。今は探偵をやってます」

 ──探偵、だって?

 それはまるで神が宣う御託宣のように、唐突に私の頭の中の隅々にまで響き渡った。

『あなたが強く望めば、あなたの切望する環境は自ずと整うのですよ。望みなさい。そして流れに身を委ねるのです』

 恩師の言葉は、御託宣だった。恩師は神か、御仏か。
 彼をここで決して逃してはならない。
 私はこの時を待っていた。

 今度は私が皇に対して饒舌になる番だった。


(第二話へ続く)


illustrated by:
Kani様

物語の前日譚『奇譚編』はこちらから


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