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20歳 東京生活!

2001年。
19歳の時にお付き合いをしていた方が、音楽を目指して上京しました。
私の高校時代はGLAYやL'Arc〜en〜Ciel、SOPHIA、黒夢、ハイスタなんか流行って、コピーバンドやらお盛んで、農家の真面目な親の元で育った私は、常識や校則に縛られず自分のやりたい事を形にするパンチある人たちに惹かれていったものでした。反対の人種に惹かれる遺伝子本能でしょうか☺︎

20歳専門学校2年生。
彼が東京にいる事を知っていた専門学校の担任の先生が、就活の時期に自分の従兄が目黒で経営してる歯医者が歯科受付で求人を出してると、私に紹介してくれました。その歯科医の先生から採用を頂き、私は彼を追って20歳の1月、専門学校の卒業式を待たず上京しました。

東京に行く

その時も “楽しそう!これで彼にも会える!”
そのぐらいの興味本位で東京行きを決めた。親には大学に行かせたと思って2年だけでも東京へ行かせて〜って理解をもらった。

しかししかし、軽い簡単な気持ちで決めたもんだから、社会人1年目は本当に東京にやられました。熊本とは違う慣れない環境、そして慣れない仕事。慣れない人たち。友達も居ない家族もいない。

1時間かけ通勤をしていましたが、ストレスかな。帰りは電車の中で毎日毎日森永DARSチョコをコソコソと食べまくっていました。(森永様お世話になりました)

誰も喋らない静かな電車の中で、私がチョコを出す音だけがカシャカシャ聞こえるようでした。あと少しで家に着く。という時に路上でお漏らしをしてしまった事もあります。最初は特に精神的にとても辛かった。

4年間、東京生活をして熊本に帰るのですが、私が感じた東京の違和感は「距離」でした。人が人に無関心で心の距離はとても遠いのに、満員電車だの路上だの、身体の距離は近いこと。この矛盾がキツかった。
良かれと思ってする親切すら、びっくりされて変な人って思われたり。人が人に関心の無い不思議な世界。(勿論そればかりでは無く、一個人の感覚での話です。楽しい事も沢山、いい人も沢山!)


私は川崎市中原区に住み、武蔵新城駅を利用していました。
人がごった返す朝の通勤、人の群れに押されながら早足で移動しているとハンカチを落とした事に気が付き、後ろを振り返り、人の流れを逆らうように歩き出しました。するとみんなが落としたハンカチを避けながら歩いてくる。

その様子がスローモーションで記憶に残っています。すごく不思議な光景でした。私のハンカチ。かわいそうに。そうシンプルに思った。
ただそれだけなのにハンカチと自分を同一化しちゃったのか、悲しくなってめちゃ泣きそうになった。

歯医者の仕事

歯科受付の仕事と聞いていたけど、チェアが2つで3人しかない歯医者では受付も歯科助手もできないと困ると、歯科助手の仕事もしていました。
何の経験もないのに、
これが歯医者の世界の当たり前なのか?
言われるがままに
バキューム、歯の型取り、石膏流し、詰め物をした後のフロスがけ、クリーニングをしました。無知なので熊本に住む、歯科関係の友達に相談に乗ってもらったり、歯のチャートの事を教えてもらったり。ありがたや

しかし、全然上達しない。不器用過ぎる。
患者さんや先輩に迷惑ばかりかけてしまう。
院長には毎回がっかりされてしまう。
歯科には院長と歯科衛生士の先輩、そして私の3人しかおらず、練習しろと言われても、仕方がわからない。練習相手になってくれる人がいない。

誰かに協力してもらったら?と言われても、家族も居ないし彼には断られるし、頼める友達が1人しかいない。その友達に診療が終わった時間に1度来てもらい、クリーニングの練習をさせてもらった。でも
その帰りに先輩に言われた言葉は今でも覚えている。
「あんな友達しかいないの?」
確実に見かけの事を言っていて本当に頭にきた。私の大切な友達を侮辱され、本当に頭にきた。その後、その先輩とも仲良しになったんだけど、先輩が悪気なく言った田舎者扱いの言葉たちはどうしても消えない記憶。
そんなのわからないの?
そんなの知らないの?
その言葉の強さに心がたびたび痛んだ。

仕事に苦悩する日々

仕事には本当に苦労しました。歯の型取りは患者様のお口をお借りするので、失敗すると患者様にも迷惑をかけてしまいます。
院長にチェックしてもらう度に緊張で仕方なかった。歯の型取りも石膏流しも気泡が入って睨まれる、そんな事が何日も何回もあった。自分の努力が足りないんだと自分を追い込んだ。

仕事ができない分、人が掃除を嫌う場所、トイレや患者様が口をすすぐ、器具の排水の掃除は一生懸命やりました。私が居てよかった。いつかそう思ってもらえたら。そう思って、できる仕事は一生懸命していました。

それでも手技に関しては
毎日毎日、緊張。緊張。緊張しかない。
金曜は明日から休みだ!ってすごく嬉しくて、彼が働く新宿までワクワクしながら夜出て行ってた。でも日曜日は一人暮らしの部屋で天井を眺めては布団の中で泣いていました。明日仕事に行きたいくないと。家族が恋しいな。友達が恋しいな。逃げたいな。

歯科衛生士の先輩もこんな私だから嫌気がさしてくるもんです。必要最小限しか言葉を交わさない、折り合いも悪い時期もありました。

両親にも職場の状況や、不器用でなかなか仕事ができなくて辛いって話をしていたんだけど
父も母も「がんばれ、がんばれ!」と言ってくれていました。母は友達のように寄り添ってくれるけど、父は努力をすればいつかきっと大丈夫。お前の努力が足りないんだ、がんばれ!とずっと言っていたかな。

仕事を辞めたい

それでも仕事が出来ない日々が何ヶ月も続いていよいよ、精神的におかしくなって…。夜も毎晩泣いてしまうし。彼に相談しても、これを読んでって高橋歩さんの書籍を渡されて…もうそういうレベルではないの〜ってね。😭

いよいよ、私は東京の求人案内を手にしていました。
辞めたい。辞めたい。もう嫌だ。
嗚咽しながら大号泣。
そして、19歳の頃に他界した大好きな祖母に
泣きながらこう伝えました。
仕事を辞めたい。
ばあちゃん助けて。
もっと人が沢山いて、楽しい職場で働きたい!!
こんな狭い世界はもうイヤだ!!
ばあちゃん助けて。

九州の両親にも電話をして、仕事が辛い。辞めたい。と大号泣したのです。

するとその時父が優しくこう言いました。

「もういいぞ。がんばらんで。もういい。」

いつも頑張れ!という父が初めて頑張らなくていい。と言ったのです。
それを聞いて、また大号泣。
私は父のがんばれに応えたくてやってきたのに、ごめんなさい応えられなくて。
ごめんなさい。東京へ出してくれて応援してくれているのに。

電話を切ってから沢山考えました。父が初めて頑張らないでいいって言った事。それを言われて気持ちが緩まるような気分にもなりました。そして冷静に
自分の努力がまだまだ足りないんだ。もっと努力をしよう。もう少し歯医者の仕事を頑張ってみよう。

そうして極限の精神状態を乗り越えたのでした。

それからの不思議な流れ

もう一度、歯医者で頑張る。
そう決めて仕事に励む毎日、失敗を繰り返す日々、
変わらず院長に睨まれる日々。
そんな毎日でしたが、転機が訪れます。

それは、歯医者の患者さんで来ていた税理士事務所の先生が、新しく開業する分室の秘書に私を雇いたいと私の前で院長に相談をしたのです。

当時は素直にその事柄を受け止めていましたが
今思えば、本当の事なんかわからないですよね。
そのことが、実は裏で院長と税理士の先生で話が進んでたのかも。税理士の先生のちょっとした雑談を仕事ができない私に良かれと院長が膨らませたかも知れないし。

父にも久しぶりに電話をし、一連の引き抜きの流れを話しました。すると父がこう言いました。

“いや〜びっくり!実は昨日、お前が電話ばしてきて、転職だの仕事ん話ばする夢ば見たとよ〜!変な夢ね〜って心配しっとったとよ。虫の知らせばいね〜!(熊本弁)”

なんか知らないけど、父が前日に私の夢を見ていた。😅だから電話口の私の内容にとてもとてもびっくりしていました。

引き抜きの話をどうするか

私が好きなように決めてって院長は言いました。
歯科衛生士の先輩にも相談し、父の言葉から、もう一度歯医者の仕事を頑張ってみると決意した矢先だったのもあり、歯医者で働きたいと院長に伝えました。

しかし、あっちで働く方が私に合っているし私のためにもなるかもしれない。
と言われました。私の好きなようにって言ったのに、めっちゃ複雑な気持ちで混乱しました。私は要らないって言われたようでした。
こうして私は歯医者から税理士事務所で働く事になったのです。

思わぬ転職

これが東京!?ってまじ思った。
こんな事があるんだーって田舎者の21歳の社会知らずの私は思うのでした。
そして冷静になると、どんな流れでこうなろうとも
他界したお空の祖母にお願いした通りの現実になったじゃん!ってびっくりするのです。
仕事を辞めたい
人が多い職場で働きたい
楽しい職場で働きたい
広い世界で働きたい

泣いて仕事を辞めたいと祖母に助けを求め、本気で親に伝えた時から1ヶ月後、私は税理士事務所で働いていました。
スーツや仕事道具は持っていなかったし、買う貯金もありませんでした。私を引き抜いた税理事務所の先生が銀座でスーツを2着お仕立てしてくれました。

税理士事務所には12名の社員の方がいて、私と先生は同じビルの違う階にある分室で仕事をしました。女性も男性も沢山いる世界はかなり楽だった。機嫌を伺ったりする必要もなかったし、黙って仕事して終われば平和に帰れて。
帰る時に東海道線から見る東京タワーが最高に大好きだった。最高に癒された。毎日、元気をもらえた。

今まで3人での仕事。その世界から少し広くて少し自由な職場になりました。
先生は私を仕事でどこへでも連れて行ってくれました。
麻布での会食や六本木でのセミナー、美味しいお店にも沢山連れて行ってくれ、帰りはタクシー代と支払いをしてくれていたり。田舎から出てきた私にとっては、バブル時代を経験(バブル時代を知らないのに)したような贅沢な時間でした。

こうして私の東京生活は180度変わったのでした。先生にはご家族もあり、私は娘みたいな感じだったと思います。

その先生も今はお空の人となりました。
今思えば私の東京生活は色んな人との巡り合わせで色んな事があったんでした。
東京を離れて14年。日常に追われて忘れるよね。あーー泣きそうです。記憶とともに感謝が沢山湧いてきました。

また書きますね☺︎

そして続き↓


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