知らず知らず守られていたもの
30歳になったらしい。
30年も自分が生きていること自体が、ただただ不思議に感じられる。
私は、母親が38歳のときの第一子だ。
詳細を聞かされたことはないが、約7年間の不妊治療の末に授かった存在だとは知っている。両親が命をつないでいく意思を一度でも諦めていたら、私はこの世にいない。
その話を聞くといつも、自分って幸運だなと感じてしまう。
いまは、30代後半でこどもを生むことも珍しくなくなってきてるけれど、私が生まれた時はそんな空気なんてなかった。授業参観のとき「○○ちゃんのお母さんは若くて美人だな」とかちょっと考えてしまった時もあったし(ごめん)、もちろん高齢出産は身体リスクが高まるし(本当にごめん)、親の介護と子育てが被る時期は、地獄絵図だ(めちゃくちゃ、ごめん)。
だから、それを私が考えることを、両親は決して望んでいないとわかっていても、私は両親が私をこの世に得るために払った「なにか」について、ずっとずっと、思いを馳せてしまう。
その対価に見合う選択をしたい、その対価に見合う真っ当な人間になりたい。私の人生観の根っこには、ずっとその思いがある。時にはその言葉に囚われて自分を勝手に追い込むバカをするくらいに。
でも、やっと手にした「自分たちのこども」に、2人はいい意味で、自分の願望の何ひとつをも投影しなかった。
「どんなときもあなたの味方だから」
母親は今でも、いつもそうやって私に言ってくれる。30年もあると、そこそこ大事な決断を何度か下さなくてはならない。でも、その人生のどんな分岐点でも、家族は私の選択を否定はしなかった。
私の自主性を、勇気を持って(本当に勇気いるだろうな‥)尊重しようとする両親の意思。それを受け取った私にできることなんて、ひとつしかなくて。
ひたすら考えて考えて、そして自分で責任を取る覚悟を決める、ということだけだ。
まだまだ30年しか生きていない未熟な人間だけど、自分が幸運にも穏やかに生き延びられているのは、この両親の教育方針によって生み出された性格が大きいと思っている。
両親は、「自分で考え、決断を下し、責任を取る」という私が取るその行為が、なるたけ失敗に結びついたり、誰かを傷つけることがないようにと、広い視野が備わるような育て方をしてくれた。
父親の仕事が超絶多忙なので、家族全員で一緒にいられる時間はさほど多くなかったけれど、両親は、私の好奇心をできる限りの力で一つ一つ叶えてくれたし、芸術肌の2人が人生で集めた、この世の美しいものをたくさん見せてくれた。
そして、父親が撮るドキュメンタリー番組を通じ、この世にはいろいろな側面があることを私に日々伝えてくれた。
怒られ方もなんか面白くて「同じことをされたらさ、どう思う?」とか「あなたが言ったその言葉を、例えばこんな立場の人が受け取ったらどう感じるかしら?」みたいな問いかけが特に印象に残っている。他者の気持ちを知覚する人間になってほしい、という両親の気持ちから発せられたものだと思うんだけど、今思うと、めっちゃPR的な考え方だなあと。
いまこういう仕事をしているのは、自然なことなのかもしれない。
幼い私が踏み出すこわごわとした一歩一歩を、両親は辛抱強く見守ってくれた。そうして私は人生を開き、いろいろと波に揉まれあっぷあっぷしながらも、そんな私を私のままに、家族として、仲間として、友達として受け入れ信じてくれる人たちと出会い、30年という月日を過ごした。
「お誕生日おめでとう。あなたは、立派な大人になったね。嬉しい。お母さんは、これからどんどんこどもに帰っていくようなものだね」
誕生日の朝に、母親からそんなLINEが届いた。
つくばに引っ越してから、もう全然会えなくなっていた。
30歳というのはすごく難しい年齢だ。まだまだ30だと言われることも、もう30だといわれることもある。学び修正していかなければならない点もあれば、絶対にもう折ってはならない信念みたいなものもある。
これから先の10年は、そのバランスに苦しむのかもしれないなあ、なんてことを最近はずっと考えていた。
そんな矢先に、私の心はこの母親に、30年もの間ひたすらに守られ続けていたのだと、改めて気付かされたのだ。
そしてこれからは、少しずつその立場が変わっていくのだということも。
そんな母親に守ってもらった自分を、やっぱり私は大切にしたい。
色々問題はあれど、自分を心から大切にしてくれる人たちがいるこの人生が、幸せだ。
これからは、私を守ってくれる人たちのために、私の人生を全力で使っていきたいと思う。
読んでくださいましてありがとうございます〜