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湯を沸かすほどの熱い愛ってなんだ?

金曜の夜は大体森下の居酒屋でまぐろユッケを食べていたのだけど、コロナ禍ということで、別の楽しみ方を見つける必要が出てきた。
そんなわけで最近の花金は映画を観ている。
動画配信サービスさまさまなのである。

所属している会社は、コンテンツの勧め方が上手な人が多くて嬉しい。
先週は同僚さんの書いたnoteを読んで、「湯を沸かすほどの熱い愛」を。そして今週はまた別の同僚さんの勧めで「インター・ステラー」を観た。

どちらも「愛が人類を救う」をどストレートに描いた作品で、顔をべしゃべしゃにしてしまう最高の金曜日を過ごせた。

そんな「愛ってすばらしいよね」という主張の激しい映画を立て続けに浴び、「おお、愛、ダイジにしよう」と馬鹿正直に受け止めていたところで、この本を聴き、思わず笑ってしまった。

だって。

第6章 「愛している」は錯覚だ

アルボムッレ・スマナサーラ氏という仏教徒の僧侶が「よい意思決定をするために心がけるべきこと」について語り下ろした本。
「自我」すなわち自分の中に沸き立つ感情が、正しい意思決定や選択を阻害するというのが、仏様の教えであり、氏の主張するところ。
自我に囚われ歪な意思決定して破滅の道を進まぬよう、自分の感情とうまいこと付き合うコツについて、書かれている。

見出しはこの本の第6章のタイトルそのまんまだ。
仏教において「愛」は「迷い」と評されている。不安定かつ感情的で「人間が持ってしまう最も強い自我」と、危険視されているらしい。
たしかにそうだ。今回はどちらの映画も愛は望ましく機能したけれど、愛で身を滅ぼす顛末を描いた映画だって、この世にはごまんとある。

じゃあ、湯を沸かすほどの、残された安澄ちゃん達が強く生きていけるほどの熱い愛って、一体、なんなんだろうか?

本の中では、「愛」という強い自我を、向ける相手に役立つものとするために、「愛している」という大雑把な感情をもっともっと整理しましょう、自我を捨て、相手が必要とする行動にまで落とし込んでいきましょう、という話が述べられていく。
つまるところ「お前が言う愛とやらをもっと言語化せい」という話だ。

人間である限り、自我、感情を捨てることはすごく難しい。
でも「自分が大切な人たちの前から間もなく消える」という事実を突きつけられたら、どうなんだろう。
双葉さんやクーパーは、余命宣告や、帰還が困難な宇宙の旅と向き合うことで、ある種強制的に「愛から自我を排除する」状況に追い込まれていたのかもしれない。

たとえ自分がいなくなってしまっても、想いが成り立つように、家族への「愛している」を、形あるものへと変えていった双葉さんとクーパー。
観終わった後も、ふたりの生き様にただただ思いを馳せてしまう……。
素敵な映画でした。

ちなみに仏教では、愛は「慈・悲・喜・捨」という4つの心のはたらきである、と定義づけられています。詳細が気になった方はぜひ、こちらのオーディオブックを聴いてみてください。

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