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「死にたい」と言えること

ネガティブな言葉を口にしてはいけない。ということは一般論として定着しているように思う。確かに、他人を傷つけたり嫌な気持ちにさせるような言葉をわざわざ口にする必要はないだろう。でも、それは他人のためであって自分のためになっているのだろうか、ということを考えてみたい。

もちろん、日常の全ての発言をネガティブなものにしようなどという極端な取り組みをするつもりはこれっぽっちもない。ただ、全ての発言をポジティブなものに強制することは各々が持つ豊かな感情を表出することを制限し、その結果負の感情を1人で対処しようとする人が増えることが懸念させるだろう。

冒頭の「死にたい」という言葉もそのひとつだ。それは非常にセンシティブで偏にまとめることが憚られる語である。その発言状況や背景を知らない者が何か適当な反応を返すことは危険だろう。下手に使うと、二度とそれを言うことは許されないような関係性になる可能性も秘めている。それでも、それを心の中にとどめておかず言葉にする人は弱い人ではないと思う。むしろ強い人だと考える。なぜなら、誰にも見えない心中をあえてさらけ出すという勇気ある行動をしているからだ。誰かに求められたわけではなくとも自然にそれができる人、すなわち自分で助けを求められる人だ。「死にたい」という言葉を聞いて、何もせず放っておく人はあまりいないだろう。多かれ少なかれ何らかの行動をおこすはずだ。それが、発言者を救うことになるのは言うまでもないことだろう。

もっと深刻なのは「死にたい」というたった4文字を自分の内だけで抱え込んでいる人だ。それが行動に現れていれば周囲が気付くこともできるだろうが、世間の人々と変わらぬ行動を選択している場合は難しい。もしかしたら私の隣で笑っているあの人も心のどこかでは「死にたい」という感情を抱いているのかもしれない。四六時中そのようなことを考えるのはさすがにしんどいのでやめた方が良いと思うが、時々そのような目で周囲の人を見てみることも必要なのかもしれない。そうすることで自身の接し方や言動にも変化が生まれるかもしれない。

「死にたい」と思ったことはなくても、「死にたい」と言われたことは何度かある。その時に真っ先に考えることは、『彼らが明日を迎えたいと思うにはどうしたら良いか』ということだ。常に明日を志向することにより、”今日は死ねない”と思うことが結果として生きる希望になるのではないかと考えるからだ。明日への希望の中身はなにも特別なものじゃなくていい。一緒にご飯を食べるとか、本の続きを読むとか、好きな音楽を聴くとか、、、

「死にたい」という言葉はむやみやたらに使うものではない。だけれど、使っていけないものでもない。本当にそのように感じたときは遠慮なく使うことで、周囲が助けてくれるはずだ。少なくとも私は助けにいきたい。対面なら話を聞く。ネット上ならきっとDMを送る。小さな勇気に生かされる人がいると信じている。

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