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マインドフルネスなどの「気づき」は「愛」「赦し」「慈愛」の三つの要素に分けられる三位一体  (「霊(スピリット)について―その5―)

(※今回の記事は、「ジョジョの奇妙な冒険・第5部 ローリングストーンズ エピローグ 眠れる奴隷」の最後のセリフを引用しているところがあります。どこか分かりますでしょうか!? 記事中の見出し「赦し」の、『』の太字の部分です)

「漫画家・荒木飛呂彦の代表作『ジョジョ』は、一方で多彩な分野における商業的成功の実績を重ねつつ、他方で近年においては学術的観点からの関心を集めている。<特集:ポップ・フィロソフィー>宿命論と人生の意味 -「
ジョジョの寄妙な冒険」 第五部エピローグの解釈 山口 尚」)


 

「治癒」での例のように、「私」という個人は治癒は生み出しません。生体内の「働き」がすべてを執り行います。

生体の働きは、「私」という個人を超えた生命現象であり、宇宙創生にかかわる力であり、それをここでは「霊」と言いました。

霊という「働き」の次元では、善も悪も、神も悪魔も健康も病も、成功も失敗も「私」も「あなた」もないただあるがままの状態です。


 この状態は、微生物からに人間まで。生まれながらにすべての生命が持つ、人間がこの世に誕生してきた時から持つ機能です。

 この機能は「知覚」や「感覚」という認識機能に通じます。平たい言葉で言うと「気づき」です。

日常生活の体験を感情や思考といったフィルターにかけずに、普段の生活を、ありのままの「知覚」、「感覚」という「気づき」に還元する修行法は、数千年前から、宗教の修行法として取り入れられてきました。

思考は「感覚」「知覚」という「気づき」の総和

例えば、あなたが誰かに「ここはどこですか?」と尋ねられたとします。

あなたは周囲にある、風景や物から現在の場所を特定するものを探し出し、住所や場所を特定して、「東京都の渋谷の109の所です」などと相手に伝えます。

最初に相手の質問に答えるために、情報を収集するときには五感の感覚器官から入った情報から、今の場所を特定し、相手にその場所を伝えました。

「東京都の渋谷の109の所です」という考えは、五感から入った知覚と感覚情報から成り立っているということです。

知覚や感覚がまとまると思考になり、思考は様々な感情を誘発します。

しかし、禅やマインドフルネスのように、思考にまで発展させずに感覚や知覚のみの体験を維持すると、静寂や至福といった状態に至ることが知られています。

これは簡単な実験でも体感できます。

「気づき」が安らぎであることを体感する実験

「鼻から入ってきた冷たい空気の感覚に気づき、鼻から出ていく暖かい空気の感覚に気づいてください。

その出入りする温度差のある空気の感覚に「気づいている状態」を2~3分維持してみてください。

途中、思考が浮かび上がっても無理に抵抗することなく、また「気づき」に戻るということを行ってください。

すると、安らぎや静寂の状態に心身が移行することに気がつくともいます。」

 今ではマインドフルネスという「今ここ」の感覚にフォーカスする手順を行うことで、思考が作り出す善悪の二元性を超えた、至福や静寂、愛、といった体感として経験されます。

時空を超えた、「今・ここ」という状態に「気づいている」状態を「愛」と呼ぶことにします。

赦し


人は生まれたときに、誰かからつけられた「名前」がつき、成長するとともに、両親や社会、文化、宗教的な価値観を頭脳は記憶し、保存します。

そのような基本的な情報群から、ベースとなるの個人のブリーフシステムが生まれます。

そして、それらのブリーフシステムをもとに、新たな経験に遭遇した時に頭脳の中の図書館から比較し、分類、分析、判断し、「思考」を生み出し、人生を創り出します。

人間の人生の過程では、パートナーを設け、子どもを作り、家族をと環境をこの惑星で作ってゆきます。

自分のブリーフシステムに関する「思考」と一致すれば安心しますが、一致しなければ様々な苦しみが生じます。

苦しみは「思考」が作り出します。その苦しみから逃れるために、様々な望みを抱き歩んでゆきます。場合によっては許せない出来事や体験、悲劇を経験し、大きく傷つきます。


その傷はケアされなければ遺伝子に刻まれ、世代間に連鎖され、様々な障害や病として次世代に表現されます。

こうして憎しみや悲しみ、怒り、といった情報は病気のウィルスのように伝染し続けています。

それは状況によっては戦争、犯罪、差別、虐待、いじめという人間の作るドラマとして表現され、そこからまた病と障害が生まれつづけています。


こうして私たち一人ひとりすべての人間が、祖先からの癒されることをまつ記憶と傷が存在しています。この病は、これまですべての人間が作り出した結晶です。


多くの苦労や逆境が、大きな視点から見ると、進化と成長にとって欠かせない出来事であったように、

この思考から生まれ、先祖から受け継がれた病から生じる苦しみや痛みは、思考から生み出された「幻想」であると見抜き、「自由」になったときに反転します。

つまり、この病や苦しみであると思っていた「思考」は、気づきという「愛」が集まって構成されていたことが分かります。

驚くべき知覚の転換に、戸惑うかもしれません。

私たち人間はすでに、求めていた愛の中にいたことを忘れていたということに気がつきます。

私たちは、空に浮かぶ雲ではなく、空そのものであって、雲はその中を流れる一時の現象でしかありません。

私たちは、雲ではなく、「霊という働き」そのものであるという気づきによって、癒され解放されていきます。

そして、その自由になった位置から自分の運命を俯瞰します。目覚めがなければ「意味」が生まれないために「苦しみ」が生じ、続きます。

「目覚め」ることで、運命の奴隷になるのではなく、自分の運命を理解し、受け入れ、その運命の苦しみに「意味」が生まれます。

それは、『自らの「苦難」がどこかの誰かに希望として伝わっていくような、大きな意味に繋がっていくという、おおいなる意味のはじまりです。』

夢の中で虐げられ殺されたとしても、夢から目覚めたのちに、相手を罰したり、殺したりはしません。


「赦し」とは、希望や至福、解放を伴います。それは、頭脳が作る恐怖と不安という夢から覚めた時に起こる、自然な現象です。

慈愛

私という本質が「宇宙の愛という働き」であると気づき、悲劇や苦しみが夢であると分かると、目の前やすべての人の存在の背景には、自分と同じ愛という働きがあることが理解できます。


相手を、頭脳では計り知れない素晴らしい愛という存在として見ると、相手もそのように自分を見つめます。その時、愛と感謝という体感が自然に生まれます。


しかし、もともと自身の親と先祖から受け継がれた怒りや憎しみといった、心の傷から、世界をありのままに見ることが難しくなっています。


しかし同時に自身が受け継いだ親と先祖のDNAが作り出す身体があるおかげで、「気づき」という能力が生まれながらに誰しも持っています。


愛と憎しみといった一見矛盾する状態が心と体に宿っています。


愛という「気づき」は、誰しもが持つ「生まれ持った権利」であり、憎しみは後天的に学習した頭脳が作りだす幻です。


私たちはここで愛か憎しみかという選択が迫られます。


しかしながら、どちらに進んでも結局愛です。何故なら憎しみも、愛という気づきの光が作り出した、戯れであると気がつく時が来るからです。


憎しみを抱く相手も、自分の本性を忘れてしまった故の行動であることが分かり、悲劇的な現象も、やがて時がたてば何かの気づきのための現象であったことが分かるからです。


そして、相手や現象の中に愛の光を見るときに、お互いに赦しが起こり、慈悲が生じます。


自分という光の延長に相手の存在があるということが分かるのです。

「気づき」という性質は「愛」「赦し」「慈愛」の三つの要素に分けられます。

それを意図的に行うことで、頭脳が作り出す不安や恐怖の世界が癒されます。

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