自死とスピリチュアリティ

かの有名なエックハルト・トール著「ニューアース」では、人類に受け継がれている「ペインボディ」という概念を書いています。

ペインボディとは、

『人間の中にある過去の感情的な痛みのことで、人が体験したすべての感情的な痛みは心と体に住みついているといいます。この感情の痛みに意味を持たせ続ける限り人はその痛みから解放されることはありません。』

この概念は僕にとってはとっても納得のいくものでした。この概念によれば虐待や、受け継がれる何らかの病や障害などが世代間で連なるウィルスのように説明できます。

このような説明を有名な覚者アジャシャンティも

『世代間の苦悩に関して注目すべき興味深いことは、それが個人的なものではないということです。つまりそれは、その家系にいる人々に感染するウィルスのようなものです。』(大いなる恩寵に包まれて アジャシャンティ著)

というように述べています。

また、「パワーかフォースか」という著作で有名なデビット・R・ホーキンス著の「I<私> 真実と主観性 D・R・ホーキンス著)」においても、自我(エゴ)の働くエネルギーは遡ると動物世界にまでにおよぶと描いています。

つまり、進化の過程で、自己中心的なエゴのエネルギーが、世代間をまたがって私達人間の世代にで受け継がれているという、主張です。

これら覚醒者といわれる著名な三者が同じように、人間が抱える「苦悩」や「痛み」といったエネルギーは、個人的なものではなく、ウィルスのようにいつの間にか生物の進化の初期の過程で感染している症状のように描いています。

自己中心的なエネルギーは、他の自己中心的なエネルギーを持つ者とエネルギーの所有権で争いが生まれ、その摩擦で様々な障害や病といった現象が生まれているように見えます。

その巨大なバージョンが戦争であるということです。

この考え方は、私個人にとってはとても救いになりました。

なぜなら、私の母が自死をした理由、それだけでなく、親戚や友人も自死を選んでしまったことを、「個人」に全て還元しないでもよいという救いに至ったからです。

だからと言って、自死を擁護しているわけでは決してありません。

事故

自死という現象は、私にとっては「事故」のような現象に感じられます。

例えば車を運転している人は交友事故を引き起こすことが、運転していない人よりも確率が高いかと思います。

もちろん運転をしているわけだから、運転手には責任があります。しかし、どうしようもない出来事というものは世の中には存在します。

このように、心という情報空間の中でも、「事故」を起こす確率が高い状態の人がいるということです。

それは、目に見えない状況だから、外側からは全く推測し、理解することが非常に困難でしょう。

運転免許は教習所に行って、車や法律についての基本理解と実技訓練があり、最終的に筆記と実技でパスしないと自動車を運転できません。しかも数年に一度、免許の更新制度もあります。

しかし、「心と体」についての知識理解と実技訓練などは、殆どの人が知りません。

運転免許が無いまま公道を走っているような人も中にはいます。また、運転については得手不得手もありますが、心と体の操作には、そのようなものが全く今のところ知らされていません。

心と体の訓練所

こう考えると、心と体の訓練所は全く皆無なのか!?というとそうではありません。

実は人類の進化と共にその方法も脈々と受け継がれています。

それは仏教やキリスト教、道教、神道などでもそうですが、瞑想や修行というものは実技訓練に相当し、

運転教本にあたるものが、経典や聖書、というわけです。

しかし、公道での運転の方向が日本とアメリカでは、右側通行か左側通行かが異なるように、経典でもその国の文化と歴史、状況によって教えが変わったりします。

車の目的は快適に物と人を運搬することなので、その目的が果たされれば問題なのですが、教本のルールが異なるからということで争いを行うことはナンセンスです。

教義は手段であって、目的ではありません。

人間の「心と体」、という乗り物の本質的な目的は、「幸せ/癒し」です。

一方、非二元のマスターといわれる、ラマナカント・マハラジは、

『「ペインボディ」というものは存在しない、なぜならあなたは「体」ではない。体は身体知識で想像だ!」』

という表現をしています。

覚者たちの見解の相違は、それぞれの文脈では皆「正しい」ことを言っていて、その解釈と意見の相違で表現が異なるのでしょう。

例えば、円錐という物体を下から見ると円に見え、横から見えると三角形に見えるように、見ている座標(位置)で、観察される現象が異なるので、意見が割れるのだと思います。

同じように、「自死」という現象をどのように解釈するかは、その人の立ち位置で理解と解釈が異なります。

その個人の状況によって、

「死」に関しては、輪廻転生、生まれ変わり、前世、天国、地獄、無死生観は異なります。

全ての人にとって当てはまる解釈というものは存在しません。

それぞれのおかれている座標(この場合状況)に応じて、必要なことが起きています。

仏教ではこのことを「方便」と呼んでいます。

このテーマはとてもデリケートなのですが、重要なテーマなので、今後も丁寧に表現出来たらと思っています。

どうぞよろしくお願いします。



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