「悟り」:発達を促す「メタ認知機能」の開発

飯能ハイキングを思い立つ

昨日は気分の良い天気だったので、埼玉県飯能市の天覧山に行ってきました。

飯能市は、都内からすぐに行くことができ、2~3時間もあればかなりの名所を巡ることが出来るのでお勧めです。

「そうだ、ちょっと天気がいいから山や川に行ってみよう」という感覚で即日決行し、気軽に行くことが出来ます。

昨日は、西武秩父線「高麗駅」12時40分発

⇒「巾着田」(巾着田は、例年このぐらいの季節は曼殊沙華が見事に咲いているのですが、コロナの影響で刈り取られて2年連続、残念ながら干渉できませんでした。)

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⇒「あいあい橋」

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⇒「高麗峠」

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⇒「天覧山」

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⇒「飯能河原」

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⇒「飯能駅」16時30分着

ということで、3~4時間もあれば十分楽しめるコースが山のようにあるのでお勧めです。

ところで、天覧山の山頂で2~3歳ぐらいの男の子がシャボン玉で遊んでいました。

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シャボン玉の原液を全部流してしまいたい衝動にあらがえずに、シャボン玉の液体の入った容器をひっくり返してしまったようでした。

お父さん:「あー、そうやっちゃったらもうシャボン玉で遊べないよ!?」

子ども:「ごめんなさい」「謝ったからまた遊ばせて」

とお願いします。

お父さん:「もうしょうがないよ、ダメだよ。だってシャボン玉液もうないってさっきから話してるでしょ」

子ども:「なんで、ちゃんと謝ったのに・・・」

と号泣。

子どもは、ちゃんと謝って、お願いしたら自体は好転するものだと認識している様子でした。

このような親子のほほえましいやり取りがなされていました。

その子どもにとっては、発達段階的にまだ、・「シャボン玉の原液を捨て流してしまう」と、・「シャボン玉でもう遊べない」、という因果関係が出来上がっていないのです。

A「シャボン玉の原液を流す」

B「シャボン玉で遊ぶ」

というAとBの事象がそれぞれバラバラに独立しているので、その関連性が見えていません。

そうして、

C「ごめんなさい」と謝って、お願いする。

ということを行えば、事態はその子どもの分からない背景で、だいたい大丈夫になっていたという経験があったと思われます。

これまで大丈夫になっていた背景には、親を含めた大人が色々手をかけていたということです。

子どもは「謝ってお願いする」という行為だけでは自体が好転しないことや、取り返しがつかない現象もあるということを、このような経験を通して身をもって理解し成長します。

呪術的な段階からの成長

人間の発達段階で、3歳ぐらいまでの子どもは「火山が噴火したのは、お父さんが怒ったからだ」「花が咲いているのは、自分に花が恋をしているからだ」「雷が鳴ったのは、自分が悪いことをしたからだ」と自己中心的に世界を捉えます。

これを「呪術的な段階」とも呼びます。

この個人の発達段階は、人間の歴史の発達段階でも見られます。

お祈りをすれば、雨が降る。分からない現象は祭祀にお告げに全て委ねる。生贄を捧げれば事態は好転する・・・

というような時代がありました。

呪術的段階とは、天覧山で会った子どものように、シャボン玉の液が無くなっても、「謝ってお願いすれば」何故か分からないけれどもシャボン玉でまた遊ぶことが出来る、と考える傾向があるということです。

その様な時代の風習は、文明の進歩とともに衰退していきました。

その背景は、色んな側面から分析できますが、一つ理由を上げれば、「メタ認知機能による前頭前野の発達が進んだため」だと考えることが出来ます。

「メタ認知機能」とは、簡単に言ってしまえば「客観視」のこと。

全体の事象を抽象度を上げて俯瞰してみることで、それぞれの事象の因果関係が見渡せることが出来るようになるということです。

その因果関係から一定の法則性を見出し、似たような現象に応用することが出来ます。

例えば天覧山での子どもは、今回「謝ってお願いする」という方法で状況を打破してきたのが、今回は「謝ってお願いしても状況が打破されない」という経験をしました。

そして、その子どもには、大人から見ると岐路に立たされているようにも見えます。

その一つは、「謝ってお願いする」という、方法論が間違っていたのかと解釈すること。つまり、もっと熱心にあやまったり、お願いをしたら自体は改善するかもしれないと解釈するパターン。

このパターンも結構、場合によっては有効だったりします。ひょっとして偶然予備のシャボン玉の容器を姉や母が持っているかもしれないし、奇跡的に他の観光客が、その可愛げな子供の笑顔見たさに、偶然カバンに入っていたシャボン玉の液太容器を譲ってくれるかもしれません。

このパターンは、その場の状況を偶然打破するには良いかもしれませんが、その子どもは似たような状況になると、毎回「謝ってお願いする」という方法に味を占めるかもしれません。

すると、状況が改善するまで(父親が下山してシャボン玉の原液を買って来るまで)泣き叫び続けるかもしれません。

二つ目は、「謝ってお願いする」という方法では、ダメなのだ、ということを受け入れるパターンです。そして、自分の行ったことの事象の因果関係を俯瞰して眺め、シャボン玉の原液を流してしまったら、もうシャボン玉では遊べないという物理的因果関係を導きます。

そうして、次にシャボン玉の原液を全部流して遊んでしまいたい衝動性にかられても、その衝動性を前頭前野で抑制することが出来ます。

何故なら、もっと長くシャボン玉で遊ぶという、将来の見通しが前頭前野を働かせて立てられるから、一時の快楽的な衝動などを簡単に抑制し、さらに高度な遊びへと発展することが出来るようになる、ということです。

しつけに厳しい親だと、二つ目のパターンを子どもに強要しがちです。しかし、子どもの側にもそれぞれの発達する適切な期間があるので、無理強いすると後の発達に良くない影響を与えてしまいます。

人類の種としての発達

生物である人間は、生物の中では前頭前野を最も上手く発達させてきた種の一つです。

そして、生物はフラクタル的な構造(自己相似性)があります。

フラクタル:樹木や雲、海岸線などの自然界にある複雑な形状を、同じパターンの図形で表す数学的概念。フラクタルによって描かれる図形は、全体像と図形の一部分が相似になる性質があり、このような性質を自己相似性と呼ぶ。

人間は宇宙のフラクタル構造を有しており、宇宙のミニチュア版とも言われています。

呪術的な発達段階は古代の文明の人間の意識の在りようでした。そこから人間は発達し、呪術てき段階を俯瞰してながめ、新しい発達段階を経て現在に至っています。

天覧山の子どものように、人類という種も、もう次の発達段階に移行している最中だと考えている研究者も多数います。

発達にもパターンがあります。

そのパターンは、常に前頭前野によるメタ認知機能が鍵でした。言い変えると自己俯瞰能力によって、新たに世界を眺める認識様式が改定され、進化していくということです。

そして、発達段階の初期になるにしたがって、常に「自己中心的な視点」が色濃く影響しているということです。

それは呪術的な段階の人は、自然災害や自然現象を全て自分を中心とした現象として解釈する傾向があることからも、推測できます。

この世界観は、全体的な神を外側に置き、神と自分自身の関係性の延長戦で物事を捉える傾向としても見受けられます。

発達とは、別の言い方をすると「自己中心性の減退過程」ともいえます。

メタ認知機能による人間の解釈

呪術的段階で、火山や雷、花という現象が全て「自分のせい」と還元して考えることは、多くの大人にとっては、見当違いなことであることは理解できます。

しかし、「自分の能力」のおかげで望む現実が手に入る確率が高まる、という認識は、割と普通の感覚としてうけいれられています。

「自分の能力」で夢が勝ち取れるのならば、自分の能力の質を上げればよい。つまり「努力はは報われる」という、一見正しいという言葉が思い浮かびます。

しかし「自分の能力」とは「何」でしょうか?

顔やスタイル、記憶力や思考力、気質や性格においても、あまり知られていませんがそれらはほとんど多くの割合で「遺伝」の影響が色濃く反映されています。

つまり、「自分の能力」といって、モデルや芸術、スポーツ、学問、政治の分野で活躍しているものの、

モデルならば容姿やスタイル、スポーツならば体格や運動能力、学問の分野ならば遺伝的な能力、政治ならば家系や支えてくれている地域の人々、というように、

その「自分の能力」の要因を分析すると、自分が所有するものは殆ど無い、ということに気がつかされます。

「自分の能力」とは、これまでの先祖の遺伝子や、周囲の人々の関係性で生じているものだ問うことが分かります。

では、悪癖や望ましくないものはどうでしょうか!?

自分は性格が悪い、容姿が良くない、病気がち、運動能力や勉強も苦手、家系や周囲にもろくな人間がいない・・・

ということも「自分のもの」と所有できなくなってしまいます。

能力や状況というものは、私たち個人が所有しているものではなく、そこに「解釈」が存在するだけです。

どのような解釈をするかで、自分の人生が万華鏡のように良くも悪くも見えます。

そのどのように解釈するかというカギになる能力は、再度言うように、前頭前野のメタ認知機能です。

能力主義の問題点

「継続は力なり」「努力はきっと報われる」……などといった、一生懸命がんばる人を鼓舞する慣用表現を、何度も当たり前のように耳にし、口にしてきました。                                        しかし、これらは時に誰かをひどく傷つけ、社会の分断を加速させる危うい側面がある。それがサンデル教授が著書で指摘しているポイントの一つです。                                              「がんばれば報われるんだ」と信じて努力した結果、成功を勝ち取った人々が「私が成功できたのは、私が努力したからだ」と感じるようになる。                       これは反転させると、困難を抱える人たちへの「あなたが辛い状況にいるのは、努力が足りないからだ」という眼差しになりえるからです。

ハーバード大学のマイケルサルデル教授は言います。

“あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。(略)がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください”
“あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください”

メタ認知機能は簡単に言うと「悟り」に関する機能

良くも悪くも自身の全ての能力は、前頭前野のメタ認知機能で俯瞰して眺めると、「自分の所有するものは一つもなかった」ことに気がつきます。

そして、自分の能力を俯瞰して観るその意識は「空」の状態であり、自分の能力や境遇、世界を自由自在に観ることが出来ます。

これを「観自在」と呼び、空に至ろうと意図する者を「菩薩」と呼びます。これが「観自在菩薩」の言葉の所以です。

天覧山の子どもが、発達の岐路にいるように、人類という種も発達の岐路に立っています。

それは現状維持の道なのか、メタ認知機能を発達させるという「悟り」への道なのか、どちらが良いか悪いかではありませんが、どうやら今はそのような状況のようです。

天覧山のすぐ麓には、十六羅漢像があります。

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悟りへの道とは、前頭前野のメタ認知機能の開発で、抽象度の高い客観視能力の維持機能です。

その訓練法として、マインドフルネス瞑想などの方法が一つ上げられます。

マインドフルネス瞑想は、ヴィッパサナ瞑想を現代版にアレンジしただけで、ヴィッパサナ瞑想は、2500年前の仏陀の教えを脈々と受け継いできた上座仏教での瞑想法です。

発達の段階において見える景色や、考え方、捉え方は各段に変わります。

しかし発達を促す方法は、現在ではメタ認知の開発であり、古来では様々な瞑想などの修練法でした。しかし、文化によって表現が異なるだけで、その本質は全く同じです。

悟りの階梯を登るたびに、束縛していたものから解放され、時空を超えた推論が可能になります。

そして人間の精神の発達は、成人して止まるのではなく、ほぼ永遠に続いていくようです。

古来の賢者や未来の賢者とのやり取りが可能になるということです。

この十六羅漢像は、そのコミュニケーションのポータルのようにも感じました。

そんなことを考えた、秋のハイキングでした。


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