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ノンデュアリティ(マインドフルネス)と輪廻、宇宙人、高次元の存在の関係性って。

一昔前までは、瞑想というと、とんでもなく怪しげな行為に解釈された時代があった。

現代では一般社会や臨床現場ではすでにマインドフルネスは怪しい用語ではなく、むしろ健康的で知的な印象すら与える。

スピリチュアルの世界では、ノンデュアリティという言葉が流行った。ノンデュアリティの人々は、チャネリング、宇宙人、精霊、天使、高次元存在、についてはあまり言及しない。

しかしノンデュアリティを研究すると、これらは矛盾するのではなく、統合された景色が見えてくる。

まずは「今ここ」ってなに?

マインドフルネスや、非二元、ノンデュアリティをお馴染みの人なら慣れ親しんでいるけど、

非二元の視点では、存在するすべては『今、ここ』にしかありえない。

例えば、ビールを飲みながら友人と昔話話していて話が盛り上がっているとする。

ビールが無くなったことに気がつき、話の途中で中座しキッチンにある冷蔵庫へと向かい、冷蔵庫の扉を開ける。

その時背後には、さっき話で盛り上がっていた友人は、当然だが存在していることになっている。

しかし、ノンデュアリティでは、

友人は世界には実在しない。

友人は、その人の思考の中にしか存在しない。

あなたの思考が作った物語の中にしか存在しない。

目の前にある冷蔵庫を開けている現象がただ展開しているだけだ。

私たちはついさっきまで話していた人間の存在どころか、昨日嫌味を言ってきた上司や、小学校の時にいじめてきたクラスメイトのこと、来年の受験のことや、老後のことなど、

かなりの昔や遠くの将来に思いを巡らせ、セラピーを受けたり準備をしたりしている。

その準備と癒しにお金とエネルギーを費やしてばかりで、「今ここ」のこの瞬間に殆どフォーカスしていない。

本当の実在は「今ここ」にしかなく、その「今ここ」のいすべてが存在している。

つまりすべてのエネルギーが存在している。

それが本当は私たちが求めてやまなかった真実であるのに、過去や未来のファンタジーサーフィンに明け暮れる。

なぜ過去や未来に没頭するのか!?


私達人間は、過去や未来という連続する物語の中に存在しているということが前提で、生活し、仕事をし、文明を築いてきた。

この物語をつむぎ、他人と共有し、群れを作り、協力することで様々な困難を乗り越え生き延びてきた。

ホモサピエンスは、ネアンデルタール人よりも体格は小さく、頭脳においても劣っていたらしいけれど、

ネアンデルタール人を差し置いてホモサピエンスが地球上を制圧するかのように繁栄したのは、

この物語を共有する、という力が長けていたからだといわれる。

ネアンデルタール人は、実際に見て聞いて、味わったものしか扱わない、超現実主義者だった。

それに対してサピエンスは、不安や恐怖を逃れる為の物語を作り、共有していった。

例えば、現世で神に使えれば死後天国に行ける、とか

天国では、愛しい人々が待ち受け永遠に幸せにいられる、とか

逆に

神の意識に従わなければ、地獄で永遠の業火に焼き尽くされる、

などさまざまな物語を作り上げた。

物語の力は絶大で、

人間が、爆弾を抱えて自ら敵地に突っ込んでいくことも可能にした。

ネアンデルタール人とサピエンスが競合していた時代に宗教が存在したかは定かじゃないが、

サピエンスがネアンデルタールを圧倒した根底に働いているものは、同じ働きだと思う。

それは物語を信じる脳と心のしくみのことだ。

つまり僕ら人間は、物語を語り、信じる力がここまでの文明を気づいたということ。

その物語を作り出す力は絶大で、

猿を月まで飛ばし、生命情報を解析し、地球上のあらゆる場所にまで進出し、寿命を大幅に伸ばし、自分自身と同じがそれ以上の能力を持つかもしれないAIを作り出した。

反面、

地球環境を汚染し、何度も人類を絶滅させる核弾頭をつくり、自分自身の思考の力で自分自身を病んでしまったり、自分自身が創ったテクノロジーに支配され、生きているのか死んでいるのか分からない存在を生み出した。

物語は大きな力を持つので、両極端に振れやすい。

今地球上で、その物語が終わりを迎えるのか、新しいステージに移行するのかの貴重な場面が織りなされている。

マインドフルネスでは「思考」という存在が何となく悪者として解釈されてしまうきらいがあるが、

実はそのような物語を作る思考があればこそ、様々な恩恵を私たちは得ることが出来ている、ということを忘れてはならない。

私たち人間は物語の中の存在

自己紹介を求められたとき、何を語るだろうか!?

身長、体重、血液型、視力など、科学的な見地は必要がなければ語らない。

出身地、生い立ち、学歴、趣味、思考、仕事、好き、嫌いなど、自分という存在と何かの「関係性」について述べる。

そして必然として、その人がどんな人なのか!?という物語を連想させてゆく。

私たちという存在は、物語ありきの存在なのだ。

では、マインドフルネスやヴィッパサナ瞑想が大枠に目指している「悟り」とは何か!?

というと、

その物語から「目を覚ます」ということだ。

物語は、せいぜい出生してから自我が芽生える6歳以降の記憶をもとに、現在までの人生を総括したものにすぎない。

スピリチュアルにはまっている人は自分はもっと前からこの宇宙に存在し、前世は平安時代や中世時代、さらにはアトランティス時代やレムリア時代にまで、

もっとさらにはこの地球に転生する前の別の星や銀河で過ごしていたストーリを語り出す人が多い。

しかしそれらも全て「物語」であることに違いない。

「気づき」という大きなスペース・「空間」に、

「30代の物語」「大学時代の物語」「高校の部活の時の物語」「小学生の時の物語」「レムリア時代の物語」「プレアデス星人の時の話」「アンドロメダ銀河星人の時の物語」「異次元の時の物語」

というようにDVDレンタルスペースに並ぶ映画のコーナーに自分自身のストーリーが並んでいて、

一般的に生きているということは、自分はいまどのDVDに没頭しているか!?という現象を指しているのが真相であると思う。

僕はこの解釈の方が旧来のスピリチュアルの解釈よりも抽象度が高く、現実的で、リスクがない印象を持っている。

「リスク」というのは、

優れた過去や、過去生の記憶でもって自分のスピリチュアルヒエラルキーを高く維持するということだ。

それは自分が好きな映画を他の映画と比べ、馬鹿にしているようなものだ。

映画「ターミネーター」と「タイタニック」を比較しても何も意味はない。

また、自分の人生はキリストや釈迦という人もいる。

そしてそのような前世を持つ人が多くいる。

ただそれは人気のある映画を自分もはまって何度も見ている状況と同じだ。

前世の影響を今世に持ちこみすぎてしまうのは、

格闘映画を見に行って、映画館から出ると、影響されて格闘技をやりたがる状態とにている。

高次元存在

ではチャネリングや、天使、宇宙人といった存在は何尚だろうか!?

彼らはそれらのDVDを自分自身と同一化しているのではなく、DVDを管理していたり、DVDを販売している店舗が健全なマーケットを保つように働いているTUTYAの店員や店長的な位置にいたりするのかもしれない。

TUTAYAは資本主義の論理に沿って店舗を維持し、拡大するのが目的だ。

だから店にはお金が儲かるDVDが数多く並び、人気が出るような仕組みを維持する。

資本の増大が目的だから当たり前だ。

が、高次元存在は、

より意識が拡大し、循環するような物語が繁栄するように働いている。

それは不安と恐怖がベースの物語は意識が縮小するので、愛や喜び、そして勇気といった物語が繁盛するように、店舗を管理する存在だ。

愛、喜び、勇気が繁栄する物語とは、逆説的だが愛と喜び、勇気を試されたり表現する必要がある物語、ということになる。

なので、愛と喜び、勇気の割合が大きいマスターの人生はチャレンジが多いのだろうとも思える。

しかし僕は基本的に、怠け者なので、自分から率先してチャレンジに挑もうとする猛者ではない。

どうしても欲しかったりやりたい対象があれば、躊躇することなく行っている。

もはやそれは勇気とは言わないかもしれない。

ある意味自己中な状態だから。

そして、何はともあれこの地球という惑星は、富裕層からそうでない人々まで、一人残らず何らかのチャレンジをもって存在していることが分かる。

なぜなら、この惑星で存在を維持し、生きていくということ自体が非常に困難で、勇気がいり、愛がないと存在し続けられない過酷な場であるからだ。(これもある一方的なこの惑星の人生の解釈にすぎないけれど・・・)

なので、ここまで読みすすめて下さった人たちは、常にすでに愛と喜び、勇気にあふれている人であって、常にすでに救われている人であるのは間違いない。

あとは、自分がそうでないと「思い込んで」いるために、実感がわかないだけなのだ。

その自覚意識を世間では

「目覚め」とか「悟り」という。

そういうわけで、僕はノンデュアリティと輪廻転生、宇宙存在や高次元存在については、どちらが有用で、どちらが正しいというわけではなく、

どちらも存在していると思っている。

新人類・超人

人間は物語的な存在だ。

では目覚めるとは、自分の人生が良くも悪くもただ「起こっている」と物語から離れてみている状態をいう。

そして、人生が展開している場は、愛という意識のスクリーンの上で展開しているので、

依存的な愛を求めたりしない。

本当の愛を知っているし、本質的な自分が愛そのものであることが「わかっている」から、探す必要がない。

物語から抜けて、別の物語を視聴するのか、

もしくは目が覚めた状態から、従来の人生を歩むのかは、その人次第なのだけれど、

明らかに目覚める前とは違う。

なぜなら、

目覚める前の目的は、「愛」を求め、獲得することだったから。

目覚めた後は、自身が「愛」であったことに気がつくから探すことは終わる。

「愛」を表現することに転換する。

そして、宇宙は停滞を望まないので、

人生にチャレンジが生じる。

チャレンジは、これまでとは違う慣習に移行するので、

心理的には居心地悪いかもしれないが、それは別に退化した証ではない。

チャレンジしているという証だ。

人間という物語に気づき、物語を含んで超えているので、新人類、あるいは超人という言葉が当てはまるかもしれない。

そして、それは今日かなり以外に多いと思う。

ただ気がついていないだけで、情報インフラの整備のおかげもあってか、

多くの人が目覚めている気がする。






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